この商業施設新聞web企画「商業記者の独り言」のリレーコラムも今回が777回目を迎える。しかし、「777」とはなんと響きの良い回だろうか。パチンコ好きならアドレナリンが洪水のように体内を駆け巡っているのではないか。筆者のようにパチンコを嗜まない者でも、「ラッキー」とガッツポーズのひとつでもくれてやりたくなるほど、なんだか得した気分になれる。
少ない幸でも心躍るのは、今年はバッドラック続きだからだ。その元凶、疫病神はあの忌々しい新型コロナウイルスであり、これがもたらした様々な不運は、もはや触れるまでもないだろう。そして新聞やニュースで、「新型コロナウイルス」を見ない日はない。新聞(一般紙)ならば見ない日どころか、目にしない「面」はないほどだ。ニュースをつければ今日の東京の感染者数を確認してしまい、悔しいがそれが今や日常になってしまった。“新生活様式”をとうに過ぎている感すらある。
1月ごろ、一部大手新聞では「新型肺炎」などと表記していたところもあった。そのころ編集部内でも中国内の出来事という、対岸の火事的ムードがあったことは否めない。それがどんどん中国の日系現地店舗が休業に追い込まれ、撤退を余儀なくされた企業もあったのも記憶に新しいところだ。今から思えばそれも序奏に過ぎなかった。その後の混乱、あらゆるものの概念が塗り替えられ、今までとは違う、新生活、新常態が浸透したが、前述のようにすでに“新”ではない。
記事執筆の時パソコンで入力する際、今や淀みなく、『新型コロナウイルス』と入力できる。そして、感染が拡大して10カ月。人々の間で広く認知されたのが、「コロナ禍」だろう。「禍」は「災い」や「災難」「不幸なできごと」を意味し、「コロナ禍」とは、新型コロナウイルスが招いた災難や危機的状況を指す。新型コロナウイルスの感染が拡大する前は、「ころなうず」と読んでいた人もいた。新型コロナウイルスでは長いので、コロナ禍に要約し、3月ごろから新聞やニュースで登場したという指摘があり、今や一般化している。さらに最近では「コロナ下」という見出しを発見した。コロナの下ではという意味だ。コロナの下では様々な経済活動に支障が出るという、すでにコロナは当たり前という前提に立っていると思われる。これからこの「ころなか」が広がるのではないかと推察する。
今、ワクチンや治療薬の開発が急ピッチで進むが、完成して人々の手に渡るころは、コロナに感染していてもすぐに治るという安心感が広がり、コロナに対して寛容な社会になるかもしれない。すると店舗で、「コロナ可」というサインが出るだろう。そして、ワクチンなどの申請には保健所のコロナ課が担当する。そして今の災禍からようやく脱することで、これを記念して何か歌われるかもしれない。もちろんコロナ歌である。それから十数年が経ち、この2020年を思い出すとき、「コロナか(ぁ)」と呟くだろう。