(一社)日本臨床検査薬協会(JACRI)米国医療機器・IVD工業会(AMDD)共催の第5回メディアセミナーで、Dr. GONこと(医)鳥伝白川会理事長の泰川恵吾氏が、「在宅医療最前線‐離島と都市部で活動するDr. GONシステム-」と題したセミナーを行った。沖縄県の宮古島と神奈川県の鎌倉で在宅医療を中心に展開する「ドクターゴン診療所」を経営する泰川氏が、在宅医療を志した理由や、宮古島の在宅医療の現状、在宅患者に対する医療適用などを紹介した。
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◆沖縄~スコットランドを経て杏林大学に入学
泰川氏は、冒頭で自己紹介に加え、なぜ在宅医療を志したのかを詳細に説明した。1963年に宮古島で生まれ、物心つかないうちから同島を出て、沖縄本島の那覇にある琉球政府立泊小学校に入学した。当時、沖縄県は米国の占領統治下にあって米国政府の下部組織である琉球政府が管轄していため、泰川氏は日本国籍を持っていなかった。小学1年生の夏休みに、親の仕事の都合でスコットランド・エジンバラに引っ越した。しかし、日本国籍がなかったこともあり、2年もの間現地の小学校に通うことができなかったという。スコットランド生活の後、東京・調布で初めて日本国籍を取得、その後は東京で少年~青春時代を過ごしていく。
全寮制都立秋川高校(現在は廃校)を卒業後、諸事情もあって一浪して杏林大学医学部に入学。89年の卒業後、実力本位の方針に惹かれて東京女子医科大学第二外科に入局し、92年から同大学の救命救急センターに配属となった。
◆東京女子医大救命救急センターに10年従事
今でこそ救命救急は江口洋介氏主演の「救命病棟24時」のおかげで社会的地位を得たが、当時は「外科で救急や外傷をやる奴は廊下の隅を歩け」という扱いだったと語る。しかし、泰川氏は救命救急こそが、がんなどよりも社会の利にかなっていると考え、がんでも何でもない救命救急に取り組んでいた。
東京女子医科大学で10年近く従事した後、思うところあって故郷の宮古島に戻り、訪問診療がメーンの診療所を開設した。仕事が軌道に乗ってきたこともあり、(医)白川会(現在の鳥伝白川会)を開設し、同会の理事長となった。
◆「一体ここで何をしてるんだ」
思うところとは、救命救急センター時代の話で、泰川氏は重症患者を救う最期の砦、ここに運ばれる命は失ってはならない命であり、諦めは患者の死を意味する、患者の死は救命医にとって敗北を意味すると考え、救命救急に取り組んでいたという。
90年代前半の新宿は、まだ今のように外国人は少なく、日本人のやくざの抗争が頻発している場所であり、泰川氏が勤める救命救急センターには、抗争によって腹などをドス(包丁)で刺されて運ばれてくる患者が多かったという。
泰川氏は当時、1人でも多くの命を救うために、上記のような重症患者に人工心肺による循環維持などを施し、命を救うことで多くの人命を助けていると思っていた。しかし、よく考えたら助かっても植物人間になってしまうなど、元通りに完治する患者はほとんどいなかったことに気付く。
そして「一体ここで何をしているんだ」と考えるようになったという。また、97年あたりから高齢者や末期がん、全く治る見込みのない患者で病床が埋まるようになり、どのように解決したらいいのかと考えたところ、高齢化社会により日本の人口統計が逆ピラミッド型になりつつあることに気付き、このままでは日本の救命救急センターすべてが崩壊すると危惧したという。
現状を少しでも解決する方法として、災害などで同時に多数の患者が出た際、手当ての緊急度に従って優先順をつける「トリアージ」のような概念が社会一般に必要になると考えた。
◆宮古島市長から伊志嶺医院を借りて開業
また、高齢者が多いのはどこかと考えたところ、誰もが知っているように米どころや漁村などに高齢者が多い。そのような場所に住む高齢者をどうにかしなければいけないだろうと考え、どうせやるならば生まれ故郷にしようと、宮古島で診療所の開業を決めた。
開設には一般的に3億円前後を必要とするが、退職時点で貯金が100万円もなく、銀行に融資を求めるもお金を借りることができず、97年9月に当時の伊志嶺亮市長から伊志嶺医院を借りて医院を開設したという。開設してから3年で患者も増えたことから、2000年4月にドクターゴン診療所を開設した。現在は、12年4月に開設した地域密着型サービス ゴン、13年3月に開設したドクターゴン四島診療所も運営している。
◆神奈川県でドクターゴン鎌倉診療所を開設
その後は、縁あって04年8月に神奈川・鎌倉で鎌倉常盤クリニックを開設したが、当時医療法人は1つの県でしか活動できなかったため、05年10月に広域医療法人化した。なお、鎌倉常盤クリニックは閉鎖し、ドクターゴン鎌倉診療所として運営している。
◆宮古群島の患者148人の在宅療養を支援
次に、泰川氏はメーンの活動拠点とする宮古群島に関して説明した。11年3月31日時点で人口は、宮古本島4万7925人、伊良部島5847人、多良間島1299人、池間島648人、来間島168人、下地島32人、大神島28人、水納島4人となっている。ドクターゴン診療所は宮古本島にあり、水納島と多良間島から約80kmの距離があるため、往診できる距離ではないという。
泰川氏は宮古島の高齢者人口分布(65歳以上人口比率図)の表で、市街地以外はほとんどが15%以上、30%以上の地区も多いことを示した。また、宮古島の医療機関分布の表によると、(医)徳洲会の病院、県立の病院、リハビリ病院、ハンセン病療養病院の4病院のほか、いくつか一般診療所、在宅療養支援診療所がある。
泰川氏は、在宅療養支援診療所ではドクターゴン診療所とそのサテライト以外は24時間活動しているところがほとんどなく、患者の受け持ち数もほかは3~4人だが、ドクターゴン診療所では9月時点で148人を受け持っており、規模の違いを強調した。
◆遠隔診療や持ち歩ける電子カルテなどを活用
池間島と大神島では巡回診療所を作っており、公民館などで診療している。基本的には保険診療はできないが、予防注射などを手がけている。なお、大神島では、ノートパソコンをデジタル回線で結び遠隔診療とすることで、保険診療としている。
また、東京女子医科大学時代に構築した患者のファイリングシステムを発展させ、日本初の電子カルテシステムの1つ「ドクターゴンネットワークシステム」も紹介した。ノートパソコンに入れて持ち歩くことができる当時では唯一の電子カルテで、具体的には、ノートパソコンを使って現場から患者の情報を発信、スタッフ間の共有を進めることで診療や介護の効率化を図るものである。
巡回診療風景
◆離島へは船舶やジェットスキーも活用
そのほか、訪問診療に欠かせない複数台の車両や船舶を写真で紹介した。また、離島に迅速に赴くために最高時速80km/hのジェットスキーも保有している。例えば、大神島へ訪問診療に行く場合は、ドクターゴン診療所から定期船や往診用船舶では時間がかかるため、車両で最短の出航地点まで牽引陸送できるジェットスキーが有効である。大神島の患者も宮古本島への運賃が高いほか、本島に着いてからも高齢だと歩くのが大変なため、泰川氏の訪問診療が頼りとなっている。
往診に使う車両と船舶