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(福)キングス・ガーデン宮城 主任 千葉美由紀氏


日本看護協会、「復興フォーラム2014『被災地の看護は、いま』」開催(3)

2014/4/22

左から八木橋氏、千葉氏、堀内氏、佐々木氏、中板氏
左から八木橋氏、千葉氏、堀内氏、
佐々木氏、中板氏
公益社団法人 日本看護協会(坂本すが会長)主催の「復興フォーラム2014『被災地の看護は、いま』」が2月11日に開催され、4人の講師によるリレートークが行われた。1番目の八木橋香津代氏に続いて、社会福祉法人キングス・ガーデン宮城 南三陸訪問看護ステーション主任の千葉美由紀氏が体験談と震災の教訓を語った。

◆気仙沼市は死者不明者1280人
 南三陸訪問看護ステーションのある宮城県気仙沼市は、2011年3月11日金曜日午後2時46分ごろ、1000年に一度ともいわれるマグニチュード9.0、震度6弱の大地震、その直後に襲った10mを超える大津波と、それに乗って流出した石油の引火による広域火災も発生し、沿岸の家々や多くの人命、生活基盤が失われた。
 気仙沼市の被害状況は、13年6月20日現在、死者数1041人、行方不明者数239人、震災関連死認定件数105人、住宅被災棟数1万8764棟、被災世帯数9500世帯となっている。そして、気仙沼市の人口は、10年の7万3489人から、13年11月1日現在で6万7027人と減少した。

◆震災翌日から避難所で救護活動を開始
 沿岸部近くに立地していた同ステーションのスタッフは、震災直後、それぞれの訪問先からステーションに戻り、この場所から1km離れた高台にある中学校まで走って避難した。震災でステーション、利用者、営業車、自家用車を失い、ステーションは見る影もなく、すべて流されてしまった。利用者は死亡30人、転居施設への入居を含めると約50人、4割もの利用者を失った。営業車は6台中5台、自家用車はスタッフ全員分の8台が流出、また、自宅を失ったスタッフもいる。
 そんな中、千葉氏は「私達は、失ったものは多くありますが、失わなかったものもあります。それは、スタッフ全員の命、訪問看護師としての使命感、唯一持って逃げた訪問バッグがあったからこそ、私達を前向きにしてくれた」と振り返る。そして、震災翌日より毎日避難所である中学校の体育館へ通い、利用者の安否確認と情報を収集するとともに、自衛隊の救護班が設置されるまでの間、救護活動を続けた。

◆震災6日目から徒歩により訪問介護を再開
 同時に、これから訪問に行くことの是非を迷うことなく、どうやって行くかを考え、震災2日後には、訪問が必要な人をリストアップし、6日目には歩いて訪問を再開した。震災1カ月目の11年4月から13年8月までの利用者数と訪問回数の推移を見ると、月140~150人を訪問していた震災前の水準に戻した。このうち20人ぐらいは、仮設住宅にも訪問している。

◆「自分の命は自分で守る」
 震災後に行った見直しでは、まず、災害時のマニュアルを検討した。震災前は、何かあったらステーションへ集合し、所長から各スタッフへ指示が出されていたが、震災後は指示待ちではなく、各自が自分の考えで安全を確保し、落ち着いたところで状況を所長に連絡するということにした。
 千葉氏は、「今回の震災でも安全なところに避難したにもかかわらず、戻ったことで亡くなった人たちも多くいた。私達もそうでした。とにかく自分の命は自分で守る。生きていれば必ずどこかで逢えます」と強調した。
 次に、各訪問先へ地震津波時の対応についてのお願いという文書を配布した。その内容は、「津波注意報や警報が出されたときは、解除されるまで、訪問をいったん休止させていただきます。訪問中の場合、利用者さんやご家族の安全確保に努め、私達もすぐ、安全なところに避難させていただきます」といった内容となっている。さらに、自分達が経験したことをきちんと記録に残すために、『震災の記憶』という冊子を作った。

◆119番は通じず、つながっても救急車は渋滞
 震災時、震災後の具体的な事例として挙げたのは、震災当時、ただ1人呼吸器をつけていたミトコンドリアリー脳症の4歳の男の子。10年7月に3歳8カ月で人工呼吸器を装着し、10年9月に3歳10カ月で退院して在宅での生活が始まり、その6カ月後に震災に遭遇した。当時、家族で言い交わしていた「何かあったら救急車を呼ぶ」という災害時のマニュアルに従い119番したものの、何度かけてもつながらず、ようやく通じても救急車は渋滞でなかなか辿り着くことができなかった。
 自宅は津波被害を免れたものの、呼吸器のバッテリーが持つだろうかと、大きな不安があった。市立病院に搬送されたのは、震災発生から2時間が経過した午後5時ごろであった。その後、市立病院も自家発電が持たないため、4日後にヘリコプターで仙台の大学病院へ運ばれ、一命を取りとめた。

◆人工呼吸器の電源多様化と吸引機3種類を用意
 震災後、その家族と話し合いをもち、まずマニュアルの変更と、命をつなぐ電源確保の見直しを行った。震災前は、人工呼吸器の内部外部のバッテリーと、酸素濃縮器の酸素ボンベ、電源式の吸引機だけであったが、震災後は、吸引機に関して、充電式、手動式、足踏み式吸引機を準備し、さらに、インバーター、ソーラーパネルなどと電源確保を多様化した。発電機とソーラーパネルに関しては、震災後、このことが載った新聞を見た読者から寄贈を受けた。また、ガソリンを常に満タンにしておくこと、近隣の方々への声かけや、近くにある交番へも出向き、この男の子の存在をアピールした。
 このほか、震災によりライフラインがすべて途絶え、劣悪な環境下での避難生活などの要因が重なり、かなりの人たちに床ずれが発生し、悪化が見られたという。
 千葉氏は、「今、在宅では人工呼吸器、在宅酸素、吸引機など医療機器を使用している人が多くいます。今回の震災を経験したからこそ、日ごろの備えについて再検討し、救急車などの公的支援が入るまでの時間を、自分達でどう命をつなげるかを考え、電源確保についても、複数の対応方法をあらかじめ準備しておくことが最も重要です」と提言した。
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