電子デバイス産業新聞(旧半導体産業新聞)
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最終回


逃した魚、情報通信の利便性は大きかった
~インターネットの価値に気が付かなかった大失点!

2022/11/25

 今や、2022年、21世紀と希望を持って語っていた時代が懐かしい。「2001年宇宙の旅」という映画が日本で上映されたのは、1968年とWikipediaにある。戦後がそろそろ終わる時代になると、次の世紀に期待していた。しかし現実は、地球は狭くなったが戦争は増え、真偽はともかく、二酸化炭素の過剰排出による地球温暖化、エネルギーや食糧の不足の顕在化と、誰にとっても世界は危険なものとなっている。

 さて、1990年と記憶しているが、当時の国立高エネルギー研究所(当時、以下高エネ研、つくば市)で親しくなった博士、粒子の計測、つまり電子系の担当の新井博士に、パソコンの画面でNTTの研究所の紹介を見せられた。これが、高エネルギー物理学の学会といった全米科学財団が設立した国際ネットワークであり、これを使って当社と高エネルギー研究所と通信をしたい、というものであった。

 この時点での通信可能なサイトは、国内で約80社と記憶している。一応、ドメイン名を得て、先ずはメールでやり取りできるようにした。この時、ドメイン名の登録は、IIJであったが、未だ、任意団体であった。登録の際に、商業には使わない、という内容の誓約書を求められたのが記憶にある。当時、会社の所在地は、東京都の武蔵野市、三鷹駅の近所であったが、最寄りのアクセス・ポイントは、調布市にあった国立電気通信大学か、NTTの武蔵野通研であった。結果、国内でインターネットを、ドメインを得て運用しはじめた。これで当社は、国内でインターネットに参加した始めの100カ所のうちの1つとなった。当時、PC用のブラウザで日本語が使えたのは、富士通製のソフトしかなかった。購入して使い始めたが、結構、癖があった。

 商社であったので、自社から発信する内容が少ないと思っていたので、ブラウザで見るHTTPのサイトは一応、作ったものの、あまり更新もしなかったし、力を入れなかった。また、未だモトローラですら、HTTPのサイトがなかったので、会社に費用を請求するにも社長の理解を得るのも難しかった。しかし、これは今になって思えば、大失敗であった。

 2010年代になって、インターネットについてのアンケートが来て、経験年数を正直に報告したら、「出鱈目を書かないで、まじめに回答して下さい」とのクレームが来た。当方はまともに回答していると、開始した経緯を話すと、逆に、その頃のことを教えて下さい、と頼まれた。まあ、電通大のサイトとモデムで接続するのに、サン・マイクロのワークステーションを使っていた位で、初期の頃は接続するコンピュータが今ほど普及していなかった故、接続するだけで大変であった。一般に「インターネット」という言葉が普及する前であったし、もう始まりが、高エネルギー物理学の研究者の間の連絡手段として作られたことも忘れさられている。

 ネット・メールを運用しはじめて、高エネ研だけでなく、米国の半導体メーカーとのやり取りを、それまでのFAXから、ネット・メールに切り替えたところ、月次で12万円~17万円程度かかっていた国際電話代が、ほぼゼロとなった。急に通信費が減ったので、社長に呼ばれ、何が起きた?と質問された。そこで、ネット・メールに切り替えたことで、毎月のネット用の通信費が新たにかかるようになったが、国際FAXが不要となった報告をした。社長からはお褒めを賜ったが、今になってみると大きな後悔が残る。Webサイトの構築への手を抜いたことである。

 1980年代、1990年代、未だインターネットは普及していなかったが、これは、パソコンの価格とOSの整備が問題だったと思う。実際、ネットを使うには、今なら、スマホ、タブレット、パソコン、と安価な手段があるが、初期のパソコン、i386がCPUのデスクトップ、CRTモニターは、EGA(640×350、16色)で160万円、高級品がVGA(640×480、16色)なら200万円もした。個人では無理なレベルであった。

 この後、ムーアの法則に従い、容量は2倍、価格は半額、という勢いで、パソコンの性能は上がり、OSも、IBMとマイクロソフトからのPC-DOS(今の、コマンド・プロンプト)から、マイクロソフトがWindows3.1を出してきて、大分、使えるようになった。

 ちなみに、筆者は1996年に香港へ転勤したが、通信用に会社では使わなくなったWindows3.1のノートPCを借りていった。このノートPC、HDDは僅か80Mバイト。そして、香港に慣れた半年後、TIブランドのWindows95のノートPCを15万円で購入した。(TIブランドは台湾のACERからのOEM)。この辺りからやっとインターネットが気軽に使えるようになったが、未だ情報量は少なかった。

 さて、話を1980年代、インターネットがない時代に戻す。半導体の商社にいた筆者は販促のために顧客が業者を招待しての社内展示会に度々、参加した。製品、主にICのサンプルやサンプル基板を展示していた同業者の中で、筆者が所属していた商社は筆者のアイデアでデーターブックを展示した。まさに本屋である。何しろモトローラの製品は幅が広く、マイコンと周辺回路、アナログ、高周波製品、バイポーラ・ロジック、ECL、インターフェースなど。これらのシリーズごとにデーターブックがあった。全て積み上げると高さが1mほどもあった。なかでも、アナログのデーターブックは4cmぐらいあって厚かった。

 この展示内容、本屋、は主催者に呼び出されて褒められた。褒められたので、調子に乗ってCQ出版の雑誌トランジスタ技術、に出している広告の1月号には毎年、データーブックの一覧とバージョンを載せた。これが、また、顧客から評判が良かった。この影響は当社の顧客だけでなく、他のモトローラの代理店に影響した。他の代理店が担当している顧客から、データーブックのバージョンが古い、抜けているシリーズがある、とクレームが殺到したそうである。

 さらに、当社の営業員から、広告を見てデーターブックを欲しい、と顧客から頼まれた、と喜びの声があり、さすが技術部のアイデア、と社内からも好評であった。しかしデーターブックをスキャンして当社のサイトに載せることは思いつかなかった。データーブックをコピーしてFAXで送ることはしていたのに!残念!

 結果、日本モトローラはデーターブック専用の倉庫を借りる程のこととなった。今なら、データシートのPDFをインターネットからダウンロードすればよくなった。あの頃の、分厚いデーターブックは何であったのであろうか。要求仕様に適合するデバイスをデーターブックから見つけ出せると一仕事が終わった感があった位、データーブックは重要であったが!

 半導体や電子機器の世界だけでなく、情報の重要さに今も昔も変わりはない。インターネットで簡単に資料、データシート、設計例が入手できると、昔のような情報への渇望が観られず、情報の収集に注力することがなくなっているように思える。

 温故知新という言葉もある。日本の創作力が少しでも増強されることを期待している。

 これを挨拶として、この連載を終了する。読者の皆様と泉谷氏の応援に感謝する次第である。ありがとうございました。
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