前回に続き、パチンコ台の興隆期の話を続ける。この平和ブランドのパチンコ台、ブラボースペシャルがデジ切れしないパチンコ台と認識されると、平和に注文が殺到した。平和もビジネスチャンスとして増産に次ぐ、増産を行う。
しかし簡単に増産できる訳ではない。部品が入手できない。肝心のマイコンと周辺回路のICは筆者が属していた商社(代理店)から提供するのであるが、この急な需要の爆発により、米国モトローラ社は、6802を作りきれない、と注文を断ってきたこともあった。そこで日本モトローラは、当時、協力関係にあった、松下半導体に製造を委託したが、結局はレッデイング問題を起こし、全数、不良となり大迷惑であった。
日本モトローラは不良の始末を当社に押しつけてきた。旧アブネット・ジャパンの例もあるが、日本の代理店の社員を英語だけで選抜すると、ろくでもない社員が入り込み、社業を傾ける。筆者は当時、この不良対応に追われて、他の仕事ができない程であった。
後日、米国のモトローラ社を訪問した際に分かったことだが、このブームの間、私が所属していた代理店は、当時、アジアで一番多くモトローラのマイコンを販売した代理店であった、とのことであった。また、米国のモトローラへ行った際に見出したが、「パチンコ」がモトローラ内では、そのまま英語として通用していた。日本モトローラの社員達は何もしなかったのに、米国本社へは、自分達が苦労して新市場を作った、と報告して大きなボーナスを得ていたのにはあきれてしまった。
さて、米国モトローラ社は作りきれない、としてきたが、電子基板メーカーにはパチンコ台用の基板の注文は次々と入ってくる。そこで、電子基板メーカーは、モトローラと共同していて、MC6802の互換品が作れる日立と交渉し、製造ラインを変更してもらい、所要数を購入できることとなった。
日立は、群馬県高崎工場のラインを変更してHD6802を作り出すのに4カ月程度であったと記憶している。この時、面白いのは、日立製の価格はモトローラ製の2割安、と決めていたことがあった。この2割は、全ての技術サポートを行っていた私と代理店への技術費、尊重費と理解している。
しかし日立は、棚ぼたのビジネスで、2年間での消費量200万個以上のうち、120万個を販売できたのであるから、かなり儲かったはずである。価格も千円という高値から始まり、3、4年後に400円程度迄まで下落した、濡れ手で粟のビジネスであった。しかも、その後、数年以上、6802がパチンコ台用のデフォルトのマイコンであったので、毎年200万個以上の市場であったこともあり、随分潤ったはず、と思う。
このパチンコ用マイコン基板の急なブームは、電子基板を製造する基板メーカー、ICソケットをはじめとするコネクタ・メーカー、抵抗器、キャパシタといった受動部品のメーカー、これらを扱う秋葉原の電子部品商社にも大きな影響を与えた。秋葉原から、赤帽の軽トラックが毎日、集めた部品を搭載して桐生へ向かった。パチンコ台用の電子基板に使われた、抵抗器、キャパシタ、コネクタ、いずれも急な大量注文に嘘だろう、眉唾物、としていたが、さすがに2年以上も続くと、上客に格上げとなった。
日立の協力で部品のめどもついて量産が始まった。まさに戦争のごとく24時間、休みなしの生産で、ひと休みできるのは、不足の部品が届くまでの時間だけ、という状況であった。
この時、もう一つICで問題が起きた。量産の作業員が不慣れなため、EPROM、2716を逆にICソケットに挿してしまうエラーが頻発した。一度でも逆に挿したまま電源を入れると、EPROMは壊れてしまう。日立、NEC、TI各社からかき集めているので壊れるのは困る。この中で富士通のEPROM、2716だけは逆に挿しても壊れない。できるだけ富士通の2716をかき集めて、どうしても入手できない分だけ、他社のEPROMを使った。
先のエッセイでも紹介したが、筆者も毎日、会社のあった三鷹から車で桐生へ通った。実際は、通った回数が多かったのは、デジ切れ対策、つまりマイコンの暴走への対策をしていた時であった。量産が始まってからも、ソフトの変更、試験治具の設計、製造、不良基板の修正、他のお手伝いで通っていた。
東京・三鷹から桐生へ度々、通うこととなるが、行きは夕方5時過ぎに出発して、夜8時頃に桐生のアイキョー社に着く。三鷹から関越に入り、東松山から太田線に入り、太田ではスバルの工場の横を抜けて桐生に向かう。途中に関東一のストリップ劇場と言われた、太田第一劇場があった。桐生に入ると桐生トルコの派手な電飾を右手に見て、アイキョー社に到達する。太田第一劇場、桐生トルコの両方とも、一度も入ったことがないのが心残りである。
アイキョー社が夕食を用意してくれているので、食べながら打ち合わせをして、開発作業を開始する。帰りは午前になる。開発時の終了時刻は、午前2時~4時まで、技術員全員で頑張った。ある段階で後は翌日に持ち越すこととして終了し、当時住んでいた所沢へ帰る。帰宅は朝の5時~7時になる。帰宅するとひと寝入りして、10時ごろには起床して、三鷹の会社に昼頃着くというスケジュールを、毎日ではないが、かなりの頻度で行った。結果、頭頂にハゲができてしまった。
量産が軌道に乗り、出荷数が多くなった結果、プログラムを格納しているROM、2716の内容を逆アセンブラでソースに戻して解析し、結果からプログラムの一部を修正する輩が出てきた。電子基板製造のアイキョーの担当部長が警察に依頼されて、何がどう変更されていたのかの鑑定書を書いていた。いわゆる、カバン屋、海賊版の基板の販売業者の始まりである。
このパチンコ台の開発の成功は周囲に知られることとなり、この後、数件のパチンコ台のマイコン基板の開発を依頼された。名古屋のあるメーカーから依頼されて作った「ジャンケン」は、筆者のパチンコ台開発の集大成と考えている。
しかし、VHSビデオの裏ビデオ、スペースインベーダ、パチンコ台、電子業界の牽引役はいずれもポルノ、遊び、ギャンブル、褒められたものでないのは日本の特徴であろうか?パチンコ、パチスロをギャンブル(賭博)にならない、遊技に留めたい警察と、何が何でも金儲けを優先する業界、キツネとタヌキの化かし合いは続いている。最近、パチンコ業界は落ち目であるが、落ち目になると手段を選ばなくなる。日本も遊技業界も、どうなることやら!