マイコンが登場して普及期にあった頃、マイコンの価格に大きな影響をした製品、今でいう、アプリが2つあった。ひとつはスペースインベーダで、もうひとつはパチンコ台であった。今回は、ICの登場と発展(6)セキュリティ編でも取り上げたが、先ず、スペースインベーダの功績を取り上げたい。スペースインベーダ(アーケイド)テーブルゲームは、ヒットはゆっくりだったが、本家のタイトー製とOEMの製造数に非合法なコピー機を含めて、発売から4~5年かかって50万台も普及した。これは当時のアーケイドゲーム機としては画期的な普及速度であり、驚異的な台数であった。
CPUはZ80、これでZ80が一気に普及した。メモリーは2708、3電源のEPROMで、コピーが容易だったので、不法コピーが大量に出回った。RAMはDRAM、確か4Kビットのものだったと思う。マイコンのシステムとしては変わったところはなかったのも、コピーを容易とした一因であろう。変わっていた点は、あの独特のパシューンという音であった。あの音は、メタルゲートCMOSのシフトレジスタでホワイト・ノイズを作り、これをアナログ回路で波形整形して作られていた。画面は、今の液晶とは段違いのブラウン管モニターで、しかも、モノクロであった。コンピュータの規格で言えば、EGA程度であったと思う。グラフィック・プロセッサは未だない時代で、74ロジックで画面メモリーを構成していた。当然、部品の数は大きくなり、電子基板も45cm角程度の大きなものであった。
スペースインベーダがヒットすると、秋葉原をはじめ、大阪の日本橋でも、電子部品が不足してプレミアムが付く騒ぎとなった。パチンコの前に、マイコンのシステムで部品の不足を引き起こした唯一の例であろう。理由は定かではないが、何故か、7406というオープンコレクタのインバータICが不足して、海外から無理して調達する騒ぎにもなった。また、基板も大きいので基板製作所も仕事があふれる、材料も不足する、と大騒ぎであった。
パチンコと違い景品が出ないので、風俗営業法の規制は緩かった。そこでゲームセンター(ゲーセン)だけでなく喫茶店、他にも置かれていた。このスペースインベーダの機械の価格は、45万円ほど(当時)であったが、この価格でも採算は大黒字となる。1ゲームは、プレイヤーが慣れるまで、数分で終わる。1ゲームを平均5分とすると、1時間に12ゲームが行える。8時間営業すれば、96ゲームとなる。これで約1万円の売上となる。他には、わずかな電気代しかかからないので、ほぼ丸々収入となる。実際は、もっと多い収入となるが1カ月あれば、機械の代金は回収して、後は全て儲けになる。これでは設置しない方が馬鹿を見る。客はスペースインベーダのある喫茶店に行ってしまうし、スペースインベーダを置けば、無視できない副収入が得られる。常識的に、スペースインベーダを置かない、という選択肢はなかった。
このようにゲームのプレイヤーだけでなく、設置する方にも大きな儲けのチャンスであったこともあり、スペースインベーダは広がっていく。ついには、何と!パチンコ店の中にまで、置かれるようになった。スペースインベーダを設置したパチンコ店のマネージャーは、「景品も出ないのに、何でお金をとられるだけのゲームが良いのか?」と首を傾げていた。
別の影響も出て、報道もされていた。このゲームは、1ゲーム100円で、100円硬貨を使う。このため、市中で100円硬貨が不足する事態となり、日銀が急遽、100円硬貨を数十億円分増産し臨時提供する騒ぎとなった。
そしてスペースインベーダは、実際、テレビ・ゲーム、アーケイドゲーム、ファミコン、プレイステーションといったゲーム市場を作った始まりと言える。今でも、懐かしのゲームとして各種のゲーム機で提供されている。
では、これを開発したタイトーとは?筆者が知る正式名称は、太東貿易で、社長はミハエル・コーガン氏、ユダヤ系ウクライナ人であった。ジュークボックスの輸入から始まり、ピンボールマシン、クレーンゲームを開発して、国内はリース、海外への輸出で稼いでいた。当時、通産省より輸出貢献企業として表彰されたこともあった。
筆者はブームが過ぎてからであるが、タイトーからセキュリティについて相談を受けていたので何度か訪問している。中に、画像の生成ソフトの相談もあり、モンキーがロープを次々に飛びついていく場面でロープが曲がるが、この曲がりを出すアルゴリズムについて聞かれたことがある。これは筆者にも難しくて解消できなかったが、米国のエンジニアが極めて小さいソフトウエアで実現したと聞き、アルゴリズム開発の重要性を認識したことがあった。
東京の千代田区平河町に本社があった1970年代後半には、本社の1階は新ゲームの評判を得るためのゲーセン、それも無料の、になっていた。ここで優秀なゲームプレイヤーが見つかると、ヘッドハントして社員にし、ゲームの開発、評価を担わせていた。
1983年には、東京ディズニーランドが開場したが、会場にあった動きのある出し物は、そのほとんどをタイトーが設計、製造した。画面の上だけでなくリアルな機械、ロボット・ライクなものを得意としていた点は、その後の各種のゲームの開発につながり、電車でGOといった動きのあるゲーム機のヒットにつながっている。
一度、市場が確立されると、当然、新規参入が起きる。セガ、コナミ、カプコン、スクウェア・エニックス、等々が参入し、ゲームの質が上がる。ゲーム・メーカーは、より良い映像と画像の動きを要求するので、画像処理が一つのコンピュータの分野と認識され、ベンチャー企業が画像プロセッサを開発して提供する。ポリゴンの処理、カラーの色数、いずれも新技術が適用されて、ゲームの画質はパソコンの画質向上と二人三脚で向上する。この変化の中で生み出されたのが、ゲーム用パソコンであり、高速処理を要求する様々なシミュレーション用ソフトウエアのプラットホームとして用いられている。
しかし、ゲームはアーケイドゲームが主流ではなくなってしまう。これがタイトーを凋落させた。任天堂のファミコンが出て潮目が変わり、家庭用といわれるゲーム機が市場を構成し、セガのサターンが登場する。そしてソニーの参入、プレイステーションへと拡大する。同時に多くのゲームがパソコン、ゲーミングパソコンで行われるようになり、国際化に拍車がかかる。
ソニーのプレイステーションは独自のマルチ・プロセッサを開発して用いていた。確か、PS3であったと思うが、このプロセッサの処理能力が、COCOMの基準に引っかかり、海外へ持ち出す際には、一人1台の規制がかかったほどであり、コンピュータの開発にも貢献している。
現在の電子ゲームは、日本の特産品として誇ってよい市場を創りだした。これは日本のコミック文化があってのことと思う。もっと発展させてほしいものである。