電子デバイス産業新聞(旧半導体産業新聞)
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ICの登場と発展 3


マイコン、EPROMの登場の時代!
~DRAMのファブを活かす製品として注目されたのだ!

2022/6/10

 1970年は半導体業界にとり大きなマイルストーンの年であったと、前回、Intel社が標準DRAMを発表した年として紹介した。この頃の社会はどうであったか、と思うと、学生運動、革マル派他が政府を攻撃していた。東京大学を封鎖して入試をできなくしたのは、1969年の春のことで、筆者が大学を現役受験した年であった。おかげで堂々と浪人できた。1年後に何とか大学に入れた。高校で同じクラブで仲の良かった友人が早稲田鶴巻交番へ火炎瓶を投げ入れて逮捕、拘留という殺伐な時代でもあった。

 前回のDRAMの件の続きとなるが、DRAMはメモリであるから、単機能である。次世代のDRAMが開発されると半導体の製造設備に世代交代が起きる。旧世代の半導体の製造設備は、DRAMには使われなくなる。これは、新世代は線幅も違い、別の工程が必要となるからである。ムーアの法則以上の速度で改善されるということは、超高価な半導体の製造設備が減価償却をする前に、DRAM用としては使えなくなることとなる。これは、困る。そこで、製造設備の転用を考えると、DRAMとしては旧世代の設備で作れる、マイクロコンピュータ、マイクロプロセッサ、マイクロ・コントローラ(併せて、マイコンとしている)、いわゆるロジック製品に着眼することとなる。

 なお、アナログのICは、放熱対策、電流を集中させず分散させる対策、トランジスタのノイズ対策といった別次元の問題で、製造設備を簡単には変更できないし、製品の寿命もずっと長いので、はじめから別物として扱われていた。こういった事情からか、本来、日本のエンジニアが得意とするはずのアナログICの世界は米国勢の寡占となり、そのままである。有名なADI(アナログ・デバイセズ)社は、ずっとアナログICの世界の王者であった。BurrBrownという競合はあったが、TIが買収して表舞台からは消えてしまった。さらに、最近になるが、CMOSアナログ製品を特長としていたMAXIM社もADI社に買収されて寡占化が進んでいる。

 半導体の製造の世界で見れば、マイコンの拡大、成長も著しいうえに、マイコンのシリコン・チップのサイズはロジックICとしては比較的大きいので、製造設備を活かすのにちょうどよい製品群となる。

 1970年はIntel社が1KビットのDRAMを発表したDRAMの元年でもあるが、同じIntel社が日本企業の依頼で開発した4004を発表して、マイクロプロセッサが登場してきたという意味でも特筆すべき年である。1972年には8008が、1974年にはIntelから8085がリリースされた。同じ年にモトローラ社から6800が、ザイログ社からZ80がリリースされた。さらに、6502が出るなど、半導体の世界ではマイコンのブームが起きた。

 当時のマイコンは、CPUが扱うデータ・バスの幅で何ビットのマイコン、という言い方をするが、何と1ビット、4ビット、8ビットと多種多様なマイコンがあった。これらのマイコンのアーキテクチャは米国製がほとんどであった。Intel社の8085、モトローラ社の6800、ザイログ社のZ80がしのぎを削る競争をしていた。これら以外にも、任天堂の初代ファミコンに使われた6502といったマイコンもあり、百花繚乱の如くであった。この2年後、Intel社は、8086、16ビットCPUを発表し、さらに2年後、モトローラ社は8ビットのバス幅で内部16ビットの6809、IBM360と近似のコンピュータと言える68000を発売した。

 この頃のマイコンは、未だCMOSではなくNMOSプロセスの製品であった。発熱は多く、速度は数MHzであり、今から見れば遅いものであった。6809は、最悪条件の発熱量を信じるとパッケージ、DIP40の放熱可能量を超える、という不思議な製品規格もあった。それでもソフトウエアでシステム機能を作れるマイコンはあっという間に電子工業界に広がり、システムハウス協会もできて隆盛の一途をたどっていた。

 当初は、CPUチップ、EPROM、RAM、周辺IC、と別々の機能を基板上で組み合わせてコンピュータやコントローラを作っていたが、半導体の製造技術の急速な進化により、ワンチップ・マイコンと呼ばれる、今流のマイコンが出てきた。これは、CPU、RAM、ROM(EPROM、後にFlashROM)、周辺回路を1つのシリコン上に作ったものである。開発言語は、ほとんどアセンブラであった。高級言語で高度な処理ができるようになるのは、パソコンが普及してからのこととなる。

 ある企業が、完成した製品を記者を集めて発表会を行い、デモとして機能をみせていた。このデモを取材していた記者が写真を撮ろうとして、撮影の際にフラッシュを発光させた。すると途端に、マイコンは停止してしまった。当初は理由が分からず大騒ぎになった。その原因は、EPROMの紫外線消去用の窓を、光を通さない金属フィルムで覆っておかなかったので、EPROMのシリコンの表面に、フラッシュの強烈な光が当たり、光電効果でEPROMのシリコン上に異常なパルス電流が流れ、動作がおかしくなってコンピュータが停止してしまった事故であった。初期によくあった事故である。この現象を逆に利用して、EPROMの消去器にフラッシュライトを使うものがあった。

 このような初期のマイコンには、セラミックDIPのパッケージで、表面に紫外線透過ガラスを用いた丸型の窓があり、書き込み時は使用時と別の電源が必要であった。当初、Intel社が紫外線消去EPROMを出してきた製品は、2704、2708、4Kビット、8Kビットのメモリで、電源は5V、+12V、―5Vが通常使用に必要であり、プログラム時は12Vに替えて25Vが必要であった。その後、2716からは、通常使用時の電源は5Vだけとなり、プログラムする際には25Vが必要であった。その後、2732とメモリ・サイズが拡張となり、TI社からは、完全互換ではない2532といった製品もリリースされた。

 この窓付のEPROMは高価であったので、通常のプラスチック・パッケージに納めた、ワンタイム・プログラム(OTP)としてもリリースされた。筆者はある顧客からOTPを消去できないか、との質問・依頼から、ICの内部を撮影するX線装置で長時間、書き込み済のOTPの消去を試みたが、できなかった。光の波長が紫外線よりはるかに短いが光としての密度が不足していたと考えている。このEPROMは電気的に消去可能なFlashROMとなり、今に至っている。
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