日本でICの生産が大幅に伸びたのは、1970年代のこととなる。そして当初の大口の需要者は、米国のIBM社やUNISYS社であり、コア・メモリの半導体メモリへの置き換え用のDRAMが主な生産品であった。この時代のDRAMはJEDECによる標準規格は未だなく、メインフレームを作っていた各社は、DRAM用の独自の規格を持っていて互換性はなかった。
当時、日本の大手電機メーカーは、IBM社のメイン・フレーム・コンピュータのコピー機を作っていたので、IBM社やUNISYS社、他のコンピュータ用のDRAMは、そのまま自社のコピー機に使うことができたというメリットがあった。
次に、1970年という年は半導体にはひとつの一里塚、マイルストーンの年である。この理由は、Intel社が1KビットのDRAMを発表した年だからである。その後同社は、4Kビット、8Kビットと容量を増加させ、1976年には64Kビットを生産している。ムーアの法則の始まりである。
この後、DRAMの市場はメインフレームからマイコンへ移り、マイコンの中にはZ80のように、そのCPUバスにDRAM専用の回路を付けたものも出てきた。1982年には、DRAMのサイズは、1Mビットとなり、1985年には4Mビット、1988年には16Mビット、1990年には64Mビットへ、1993年には、256Mビット、1995年には1Gビットへとムーアの法則以上の速さで容量を拡大し、速度を向上させてきていた。
そして、その販売価格は国外の企業が実現できないほど安価となり、日米半導体摩擦を引き起こした。昨年、2021年の半導体ランキング(産業タイムズ社)によれば、半導体の売上第1位はキオクシアで2位がルネサス、一昨年1位であったソニーは3位へと後退している。DRAMではなくフラッシュメモリであっても、メモリ・ビジネスが半導体ビジネスでの伸びしろがあることを示している。
なぜ、80年代で日本が特にDRAMの技術で優れたのであろうか?理由は1つ、2つではなく、幾つもの原因が重なった結果であるが、幾つかの特徴のある点を指摘したい。
日本は、トップ・ダウン設計、システム設計は苦手としている。逆に、ボトム・アップの製品作りは得意としている。DRAMは、単機能の部品であるので、内部の構造の設計、微細化への対応に集中すればよい。システム全体は考えず、機能と量産性だけを考え、改善すればよかった。これが、まさに日本に向いていた、マイコンのように、CPUの機能定義、開発ツール、サポート・ソフトウエア、様々な要素を必要とし、調和したシステムとすること、複雑なものをゼロから作るのは苦手としていると筆者は見ている。
この特性が十二分に発揮されたのが、DRAMであると思う。DRAMのデータ記憶部分であるシリコン上に作るキャパシタは、微細化に伴い、穴掘り、と言われる作りになり、この穴をどのように構成するか?垂直に形成できるか?といった点に集中し、微細化に伴い必要になるトランジスタの構成の変更に対応するといった事項ごとに専門チームを作り、集中して解決してゆくことでDRAMの製造技術では欧米の企業と差をつけることができた。
それと技術面では、DRAMの内部の核心部分はアナログ回路であることもあると思う。DRAMとはシリコン上に生成した小さなキャパシタに溜めた電荷により、論理回路のH、Lを記録する素子である。キャパシタの容量は、pF以下のfFの単位で計るぐらい小さく、この電荷による電圧を読み出してH、Lとするのはアナログ回路のコンパレータ(比較器)である。実際、キャパシタごとにコンパレータと充放電回路がトランジスタで作られているので、肝心のフロントエンドと言える部分はアナログ回路である。つまり内部のメモリ機能はアナログ回路で作られ、デジタルとして入出力が行われていることとなる。
日本人は、改善、もはや世界のカイゼン、が得意であり、DRAMの性能向上は、アナログは調整と改善の世界でもある。この点で、日本のシリコンのインスタンスの設計者はカイゼンを遺漏なく発揮して、DRAMの性能を向上させ、コストを下げた。
次の理由として、国内の競争を指摘したい。NEC、東芝、日立、三菱、松下他、狭い日本に競合する企業が多いので当然、競争は激しくなる。この競争は、半導体の製造装置のメーカーへの圧力となるとともに、装置会社との共同開発も多々行われた。幸い、日本の工業会は、半導体の製造に必要な種々の装置を別の目的で製造していた装置会社も多々あった。ここから、今でも、半導体検査装置としてメモリ―・テスターは別物として扱われている。
さらに、当時の企業の経営体制もある。昨今は言われなくなったが、「ケイレツ」系列が大きな力となった。競争が激しいので、新たな知見を他の同業他社に知られたくない。この点、系列の企業の中から新規に必要な装置を作れる企業を探して任せるのは情報漏れの点で安心して任せることもできたし、場合により、人員の派遣といったことも容易であった。
加えて、どの企業と共同開発をするにしても、従業員に転職されては、開発のノウハウが漏れてしまう。ところが、ケイレツ、年功序列で経営されていた日本企業は従業員の転職の心配は少なかった。この点、今は形骸化した退職金制度も、従業員の固定に役立った。
ケイレツの悪い点でもあるが、下請けが良い技術を開発すると、発注元の大手は、開発された技術、ノウハウを召し上げて、自己のものとして広くケイレツ内で利用した。これで、博士課程の卒業生を、米国のように集めなくても、現場の創意工夫からの良いアイデアをもとに特許を申請し、ノウハウとして利用して世界に通用する製品を設計、製造できた。
もうひとつの理由を付け加えよう。日本人は、横並びが好きで、競合する相手企業が儲けている事業があって、自社は、その事業をやっていない、やらないことは許されなかった。儲かると分かっている事業であるから、半導体事業へ参入しないことは許されなかった。そして、日本人の短期集中型狂乱、トイレットペーパー騒ぎ、他を起こす気質が多いに発揮された。逆に言えば、本当の新規事業、競合は何処もやっていない、過去の実績もない、こういう事業には参入しないのが日本企業であったし、今でも、そのままに思える。
最近では米国のアマゾン社、グーグル(アルファベット社)といった、誰も行っていなかったか、小規模に少数の企業が行っていた事業を上手くシステム化して世界的な企業に育てる、というスタイルが多くなった。いずれは、こういう企業が日本から出てきてくれることを期待する。