1960年代の始めに、トリオ(現JVCケンウッド)からアマチュア無線用の受信機(ラジオ)と送信機が売り出されて人気となっていた。受信機が「9R59A」で、送信機は「TX88A」が初期型であり、短期間で改良されて、受信機は「9R59D」となり、送信機は「TX88D」となった。送信機と受信機が別で、組み立てキットもあり、中学、高校のアマチュア無線部での定番になっていた。
これらの送受信機は、ALL BANDと称していて、3.5MHz、7MHz、14MHz、21MHz、28MHzを切り換えられるようになっていた。
当初は、AMが主であったが、現在では廃止となった電信、CWも良く使われていた。今でも言葉だけは残っている「SOS」は、CW、いわゆるトンツーで使われた略号であった。後に標準となるSSBは未だ一般的ではなかった。
トンツーの勉強も、CQ出版のCQハムラジオに付録としてフォノシート(ビニールフィルムのレコード)で電信の練習用のものがあり、これで一時期、電信の練習をした。これは1級、2級のアマチュア無線技術士の試験には電信の試験があったからである。残念ながら、筆者はリズム感が良くなく電信をものにすることは適わなかった。
そんな時、叔母の一人が我が家に来て、私がCWの勉強をしていると、懐かしいわ!として教えてくれた。この叔母は、最初に就職した所が、電信電話公社(NTT)で、当時、電話より電報が盛んであり、電信手として採用されて訓練された、とのことで、素晴らしい手並みで電鍵を叩き、トンツー音を聞いて書き出していった。問題は、叔母の使っているのは、和文電信で、アマチュア無線の世界では、英文の電信であったのであまり参考とはならなかった。
今は、祝電、弔電、といったことしか使われないが、当時は重要な通信手段で、東京に勉学に来ている学生が、「カネオクレ」と電報を打つのは何処でも見られる光景であった。
CWを使うと帯域を狭くしたくなる。これは混信を省き、AMからの混信を低減するには狭い帯域が必要であった事による。1960年代も半ばになれば、メカニカルフィルタ、水晶フィルタで帯域はフィルタの性能によったが、1950年代には、こういったフィルタの入手は難しかった。そこで開発されたのが、Qファイバー(Q-5'er)、である。AMは音声の周波数帯、3~10kHz程度の帯域が必要だが、CW(電信)は500Hzもあれば十分であった。
普通のラジオ、スーパーヘテロダイン方式の中間周波数は、455kHzであり、FM放送用は、10.7MHzであった。これはアマチュア無線でも同じで、455kHzの中間周波数は15~20kHzの音声帯域用に適していた。455kHzのLC回路の性能を示す、Qと言われるLC回路の部品を変えるなどして性能指数の数値を上げていくと、5kHz程度まで狭くできたが、500Hzにはできなかった。そこで中間周波数を、55kHzまで下げることが行われた。(1次)中間周波数の455kHzから、さらに第2中間周波数として55kHzまで周波数を下げれば、LC回路でも帯域を500Hz以下に絞ることが可能であった。通常の音楽の周波数帯域は20kHz程度と言われているので、55kHzは、ほぼオーディオの周波数となる。これ以下の周波数にはできないものであった。
さらに、Tノッチ、フィルタにより(特定の周波数の信号を低減するフィルタ)で、混信している別のCW通信のレベルを落として、相手の送ってくるCWを聞きやすくする回路もついていた。
筆者は、実際にこのQファイバーとTノッチを備えた受信機を使っていたことがある。ある通信士の(アマチュアでない)先輩に電信を教わっていたのだが、この方から、SR600という受信機、STAR社製(後に八重洲無線に買収された)、を頂戴した。
中学生の私にも古い真空管式の受信機であったが、これにQファイバーが付いていた。最初は何が何だか分からなかったが、分かれば便利な機能であり、Qファイバーを使うと帯域が絞れて都会での混信が減らせた。さらに電信用のトーン発振器を使うと、SSBも受信できた。もうひとつ、SR600には面白い点があった。それはLC同調回路に、通常使われるバリコンではなく、コイル・ボビンの中にフェライト・コアを置き、このフェライトの位置を変えて周波数を変えていたことがある。
このSR600受信機は、なかなか良い受信機で、HF(3~30MHz)のアマチュア用のバンドは、一時期この受信機を使って参加していた。アマチュア同士の会話やQSLカードの記載で受信機をSR600とすると「古い受信機をつかっているね!」と感心された。
後日、SR600は、大学の後輩に収集した真空管の在庫(100本以上)と一緒に譲ったが、この文を書いていて気になり、ヤフオクで見たら、「骨董日、ビンテージ」として数台の出品があった。筆者と同じ想いを抱く仲間がいる、と思う次第である。
SR600を作っていたスター株式会社は、送信機はSTシリーズ、受信機はSRシリーズとして作っていた。スタイルが当時のアマチュアの憧れであった、コリンズ社(美国)のKWM2に似ていた。このKWM2に何処となく似ていたのも人気があった理由と思う。
実は筆者の実家が東京の蒲田に近い池上にあった。東急池上線は蒲田と五反田の間の電車であったが、五反田に向かって、次の千鳥町にはトリオ、先の雪谷大塚には、アルプス電気、スタンダード工業、蒲田には日本電子工学院(当時)、目蒲線の田園調布には八重洲電気、京浜東北線の蒲田と大森の間にはスター、パイオニア、大森と池上の間の山王には山水電気、他にもあると思うが、蒲田付近を中心とした大田区は、今流にいえば、シリコン・ハーバーではなく、バキュームチューブ・エリアであったと思う。
真空管の時代には、部品も筐体も真空管の特性に合わせて大きかった。真空管はかなりの熱を出す。そこで換気が必要であったし、真空管のサイズも大きかったので、大きくならざるを得なかった。大きいことは、真空管の電子回路を理解できるなら、学生でも製品から回路図を作れたし、部品の交換、追加、改造も容易であった。廃棄になった真空管式のAMラジオを改造してワイヤレス・マイクを作ったり、拡声器を作ったり、レコード・プレイヤーを作ったりした。
これ故、多くの中学校、高校にアマチュア無線クラブがあり、アマチュア無線を楽しんでいた。無線通信で遠方の仲間と会話すること、アンテナを自作すること、送信機や受信機を自作したり、改造したりすること、こういうことを通じて電子回路好きが育っていた。筆者もそのうちの一人であるが、大学の専門課程の基礎は不要になる位であった。