人工知能(AI)が持て囃されている。SF小説やアニメの中では、鉄腕アトム、アシモフの小説の幾つかに登場して、「Please」が無いと動かない、といった人間臭い人格を持つコンピュータではない。処理が高速のコンピュータと大規模な記憶容量から、いったん行った処理結果を記憶しておいて、これを「経験」として扱い、類推が可能となったことから、人間では気が付かない関連を大量の経験から見出し、応用する技術を言っているようである。この意味では、「機動戦士ガンダム」のガンダムに搭載されているコンピュータに近い。アムロ少年が操作すると、その操作と結果を記憶し、歩く、走るといった動作は自動でスムースになってくる。その操作と結果を取り出して、次の新たなガンダムの設計に生かす点はSFの世界の話から、現場へ持ち込みたいものである。
さて真空管の忘れられた用途の話をしよう。真空管が電子管と名称が変化したのは、真空ではなく特定のガスを封入して専用の機能を実現した各種の真空管もどきが登場したからである。街中でも見かけたのが数字表示管、7セグのLEDに取って代られるまで、前後にちらつきながら数字の形をした電極から放電して数字が見えるもの、ニキシー管があった。
この数字であるが、電子管には数を数える真空管もあった。中に10個の電極があり、ある電極が放電しているところへ、パルス電圧が入ると放電する電極は隣に移る、という現象を用いてパルスの数を数えることができた計数管があった。この数値の表示器用には、カシオの小型電卓に使われた蛍光表示管もある。
テレビのカメラは、今はCMOSイメージセンサーかCCDとなるが、真空管の時代は、イメージ・オルシコン管、撮像管という真空管があった。昔のテレビ局のスタジオ写真で、カメラがやたら大型なのは、この真空管を使った撮像装置だったからである。ブラウン管を使ったオシロスコープと、今のLCDのオシロスコープの大きさの違いと同じである。
さて、今では知られない真空管の応用の極めつきは、コンピュータではないか?真空管で作られたコンピュータは、実は、当たり前に存在していた。Wikiによれば汎用コンピュータの登場は1946年とのことである。これは第二次大戦の間である。つまり、未だトランジスタもICもない時代にコンピュータは存在した。ミニコンピュータ(ミニコン)、DEC社のPDP-8が登場したのは1960年。トランジスタもレベルがとても低かった時代で、未だICは登場していない。家庭では、やっとトランジスタ・ラジオが使われる様になった時代であった。
この時代、1950年代から1960年代、トランジスタさえ真空管より高価で、使い難い時代に、すでにあったコンピュータは真空管で作られていたことに納得されるのではないか。この時代のコンピュータは今でいう、メインフレームである。使われたソフトウエア言語は、事務用はCOBOL、技術計算はFORTRANであった。
この真空管式コンピュータの主要部品は専用の真空管であった。一つのガラス管に、3極管を2個封入した双3極管は、トランジスタを2個、交差させて作るフリップ・フロップと同じく、1つの真空管でゲートとプレートを交差させてフリップ・プロップを作ることができた。複数の3極管のプレートを接続すれば、ワイアードOR回路になる。表示は前回、紹介したニキシー管、数を数えるのは、計数管。ほかに論理回路を作る際に、実は半導体が使われていた。セレン整流器と呼ばれていた、ダイオードの一種である。
このようにして作るコンピュータは、建物の規模であり、電力会社から専用の電源供給を受け、強大な冷房装置が必要であった。このようなコンピュータの処理能力は低かったが、証券会社や銀行では当然に使われていたし、理科系の学生の就職先に銀行、証券が入っていた理由でもあった。
こういったコンピュータでは、外部記録は大型の磁気テープであった。入力で多かったのは、パンチカード。厚紙でできた187.325mm×82.55mmのカードの指定部分に穴をあけて、カードを専用の読み取り機に掛けて入力した。
同じく、主に海外との通信に使われていたテレタイプも入出力装置として使われていた。テレタイプで使われる紙テープは、ASCII文字、1文字を1行で表示できた。テレタイプは、その名の通りタイプライタでもあったので、文字を紙に打ち出すことができた。
マイコン開発の初期には、このテレタイプは当たり前に文字の入出力として使われていた。テレタイプで有名なASR33という機種がある。通信速度は、110ボー(Baud、110ビット/秒)、機械の速度であった。RS232Cの通信形式は、このテレタイプ用のものである。
メインフレームの記憶素子はコア・メモリーが主であった。コア・メモリーはドーナツ状のフェライト・コア、直径数ミリでできていて、このドーナツの穴に、縦線、横線、検出線、の3本の細いワイヤーを通したものを縦32個、横32個を1枚の正方形の板状にして用いていた。このサイズは各種あって、機種により使い分けていた。記録の原理は、MRAMに似ている。リング状のコアに内在する磁気の方向で1と0とに対応させていた。破壊読出しでもあったが、これはFRAMと同じである。
このコア・メモリー、実は当時の日本の御家芸であった。織物の技術が活かせたことと、磁気製品のメーカーが複数あり、世界的にも強かった。これらの環境の影響もあってか、当時、世界のコア・メモリー市場を席巻していた。
このような背景があって、半導体メモリーが使えるようになると、DRAMの製造を日本のメーカーが請け負うようになる。当時は、UNISYS、IBM他、DRAMの規格は会社ごとに違う専用メモリーであった。
日本の大手電機メーカーは、日本でのメインフレームの製造会社でもあったので、特に互換機という名のコピー機を製造していたことから、販売だけでなく自社でも使えることから熱心に製造技術を磨き、しかも東京エレクトロン社など半導体製造機器のメーカーが地場にあったことも幸いして、コストが欧米の企業と比較にならない程、安価に作れるようになる。この延長で、INTEL社の規格、後にJEDECの規格となる汎用の標準DRAMも製造して、輸出した。結果、世界の半導体の販売シェアの50%以上を日本が占めることとなり、日米半導体摩擦の元の一つとなった。何事も、やり過ぎは不足より悪いという教訓の一例である。