人それぞれにストレス解消法がある。筆者にもいくつかの方法があるが、その1つは、何といっても横浜のローカル電車「鶴見線」に乗って、ぼうーと車窓からの風景を眺めていたり、適当な駅で散策することである。ここには多くの「昭和のにおい」があり、すっかり癒されてしまうのである。
これを部下の若い記者と飲みながら話していたら、「それって工場萌えってヤツですかあ」と言われ、女性たちからは「汚い、フケツ」などとさげすみの目線で言われてしまった。全くの誤解というほかはない。大体が京浜工業地帯の夜景を一周する船にも乗ってみたが、それほどの感慨は湧かなかった。ところが、である。同乗したピチピチのお姉さま、アラサーのお嬢さまたちは「これってスゴイ」とかわめいていたのだから、ただごとではない。筆者は残念ながら、そのような感情は全く湧き上がってこなかった。
それはともかく、鶴見線は誠に不思議なレトロトレインである。一番初めの駅は国道という名前であるが、東京から横浜に抜ける国道15号線(なぜか運転手の間ではイチコクといっているが)沿いにあるから命名されたのであろう。この駅の構内はまさに昭和レトロであり、映画のセットではないかと思うほどに古き昭和の時代がそのままに残っているとしかいいようがない。光の射し込む構内の高い天井を見上げていれば、あまりの光景に感動することすら忘れてしまいそうだ。
鶴見線の沿線の駅名には京浜工業地帯を創り上げた人たちの名前がとってある。「浅野」という駅は、日本のコンクリート王であった浅野総一郎(現在の太平洋セメントの創業者)を記念して名づけられた。「安善」という駅は富山出身で戦前の安田財閥を作った安田善次郎の名前を縮めて命名されたのである。
そして鶴見線の一大ハイライトは、何といっても終点駅の「海芝浦」である。この駅に下り立てば、そこはまさにサプライズの世界が広がっている。シンプルにいえば、この駅は何と海の上に建っているのであり、パノラマ状に鶴見の海が一望でき、京浜工業地帯の工場群も多く見ることができる。つばさ橋もよく見えるし、人もあまり来ないのでカップルのデート場所としては格好の密会ゾーンなのである。夜になると、駅に隣接した公園は熱く燃え上がったカップルが必ず数組はおり、その様を見ていると、筆者は必ずといってよいほど嫉妬に狂いまくってしまうのだ。
さて、この海芝浦駅の所有者は実のところJRではない。今や話題で持ちきりの会社、そう天下の東芝がこの駅の所有者なのだ。要するに東芝の古き主力工場である京浜事業所本社工場の中にこの海芝浦駅は存在しており、夜のカップルたちも東芝様のおかげでロマンチックなデートを楽しむことができるのだ。
つい先ごろも心が晴れない日にこの海芝浦駅を訪ねたが、「ああ、この京浜事業所の存続も危うくなっているのだな」という思いがあり、歴史はたちまちのうちに変わってしまうのだということに、今さらながら気がついた。
思えば、鶴見に代表される京浜工業地帯は日本でダントツの工場集積地であった。鉄鋼、造船、石油化学、各種機械などの重厚長大企業の量産工場が立ちならび、まさに昭和の繁栄を築いていった。1つの大きな時代を創っていった。その後、70~80年代に入ると東芝、NEC、富士通などの半導体工場の基幹工場が次々と拡張を続け、巨大化していく。その一方で重厚長大企業の多くは凋落し、地方へと工場を移転していったのだ。
そして今、東芝のクライシスに代表されるように一大繁栄を築いたニッポンのエレクトロニクスも韓国、台湾、中国のすさまじい勢いに追いまくられ、相対的地位としては下降状況となっている。そのこととクロスオーバーするようにIoT時代が一気に到来しようとしており、ロボット、センサー、AIなどの企業に華やかなスポットライトが当たってきた。
しかし、しかしなのだ。あと50~60年もすれば今は時代の花形であるIoT企業も衰えを見せ、その廃墟が観光地としてもてはやされることになるかもしれないのだ。こうした思いをもって、鶴見を散策し安居酒屋で角ハイボールを飲んで、焼き鳥をつまんでいたら、寺山修司の有名な戯曲の一節が電撃のように頭をかすめていった。寺山修司は、死ぬ前にこう書きつけていた。
「百年たったら帰っておいで 百年たてばその意味わかる」
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泉谷 渉(いずみや わたる)略歴
神奈川県横浜市出身。中央大学法学部政治学科卒業。30年以上にわたって第一線を走ってきた国内最古参の半導体記者であり、現在は産業タイムズ社 社長。著書には『半導体業界ハンドブック』、『素材は国家なり』(長谷川慶太郎との共著)、『ニッポンの環境エネルギー力』(以上、東洋経済新報 社)、『これが半導体の全貌だ』(かんき出版)、『心から感動する会社』(亜紀書房)など19冊がある。一般社団法人日本電子デバイス産業協会 理事 副会長 企画委員長。全国各地を講演と取材で飛びまわる毎日が続く。