医療産業情報
新聞情報紙のご案内・ご購読 書籍のご案内・ご購入 セミナー/イベントのご案内 広告のご案内

スズキ記念病院 看護部長 八木橋香津代氏


日本看護協会、「復興フォーラム2014『被災地の看護は、いま』」開催(2)

2014/4/8

左から八木橋氏、千葉氏、堀内氏、佐々木氏、中板氏
左から八木橋氏、千葉氏、堀内氏、
佐々木氏、中板氏
 公益社団法人 日本看護協会(坂本すが会長)主催の「復興フォーラム2014『被災地の看護は、いま』」が2月11日に開催された。お笑いコンビのサンドウィッチマンのトークショーに続き、「被災地の看護は、いま」をテーマに、震災直後から現在に至るまで看護を続ける、日本看護協会常任理事の中板育美氏による司会進行で、医療法人社団 スズキ病院 スズキ記念病院看護部長の八木橋香津代氏、社会福祉法人キングス・ガーデン宮城 南三陸訪問看護ステーション主任の千葉美由紀氏、相馬看護専門学校副校長・福島県看護協会相双支部長 認定看護管理者の堀内由美氏、岩手医科大学いわて東北メディカル・メガバンク機構 臨床研究・疫学研究部門地域住民コホート分野特命助教 佐々木亮平氏の順でリレートークが行われた。

◆ライフライン寸断下で、お産と診療を継続
 八木橋氏は、次のように述べた。スズキ記念病院は、産婦人科の専門病院で年間1000回のお産と体外受精をしている。そして、付属の助産学校を併設している。
 発生時の病院全体の状況として、同病院は海岸から4.5kmに位置し、海との間にある高速道路が津波をブロックしたため、仙台空港のように水没することは避けられた。しかし、ライフラインは寸断され、復旧するまでに10日間を要した。その間も、同病院はお産を行い、診療を続けた。
 今回の地震における問題点は、津波が想定されておらず、津波の避難マニュアルがなかったことと、自家発電システムの破損を挙げた。地震発生時には、約260人が病院におり、大津波警報のため、4階の大ホールに避難させた。窓からは、津波の波しぶきと川が逆流し橋を越える水位の上昇、煙が立ち昇っているのが見えた。夜には仙台空港のコンビナート火災が見え、余震が頻発し、これからどうなるのかと先の見えない不安を感じたという。

◆ワンセグの津波映像見て、病院4階に緊急避難
 発生直後を振り返ると、14時46分、最大震度7の強い地震が発生し、強い揺れが170秒持続した。まっすぐ歩こうとしても進めず、患者の安全確保にも廊下の手摺にしがみつきながら行ったほどの強い揺れであった。
 同病院では、宮城県沖地震に備えて年3回の避難訓練は行っていたが、津波への対策はされておらず、ひとまず、火災のマニュアルで外へ避難し、その後、1階ホールで待機した。15時55分に職員が屋上に上がった途端、ワンセグに電波が入り、津波が仙台空港に押し寄せる瞬間が映し出され、本部長が「10m以上の津波襲来、人も物資も4階へ至急避難せよ」と号令し、全員4階大ホールへ避難し、非常用物品、食料品も1階から4階に運んだ。
 新生児室では、揺れを感じてすぐに保育器3台を支えた。壊れた壁の資材から出たほこりで、煙っているような状態の新生児室の中で、伏せて揺れが収まるまで待ち、新生児避難具へママと一緒に赤ちゃんを誘導した。病室のママ達はすでに新生児避難具に赤ちゃんを入れて集合していた。
 その後、自家発電を修理し、一部使用できるようになって、全員が1階に集合し、肺炎の赤ちゃん2人の点滴を再開した。しかし、余震により、すぐに使用不可能となり、バッテリーで作動させることになった。3.11はみぞれが降る寒い日であったが、停電のため暖房がなかった。赤ちゃんは体温の調節機能が未熟で低体温になりやすいので、ポットに残っていたお湯を水で40度にし、使い捨ての清潔な手袋に入れて、湯たんぽ代わりにし、また、帽子をかぶせて保温した。

◆車やPCの電源で点滴駆動を維持
 23時、点滴を作動させていたバッテリーも尽きてしまったが、職員の機転により車から100ボルトコンバーターで送電し、点滴を作動させた。その後、パソコンの非常電源からも電気を取ることができた。翌12日、市から発電機を借り、電気の供給を行うことができた。この体験から震災後、ガソリンで動く2kWの発電機3台と30mのケーブルを10台用意した。
 分娩室では、室内の床に様々な物品が散乱し、お産ができない状態であったため、一時的に2人の産婦を避難させた4階でお産ができるよう準備した。
 同病院は、11年前から自由な体位によるお産をしており、どこでもお産は可能であったものの、助産師たちは、停電下では異常の時、帝王切開ができないし、お産が安全にできるか、はじめは不安を感じていたが、考える間もなく、水没した沿岸の病院で出産予定であった妊婦が飛び込んできてお産となった。

◆停電下の鉗子分娩により元気な赤ちゃんが誕生
 ヘルメットにつけたLEDランプで光を当て、赤ちゃんの心音はドップラーで持続的に聴取した。22時15分、赤ちゃんが降りてこず、古典的な、電気を使わないでできる技術である鉗子分娩になった。お産の間中、助産師たちは産婦に「この状況で不安でしょうが、私たちがいるから安心してください。ランプで全部見えているから大丈夫ですよ、赤ちゃんも元気でがんばっています。みんなでがんばりましょう」と声をかけ励まし続けた。赤ちゃんは元気に生まれ、震災後、初のお産を安全に成し遂げられたことで、次のお産もできると確信した。赤ちゃん向けのバスタオルはママの胸に抱いて暖め、生まれてすぐにカンガルーケアし、布団をかけて保温に努めた。

◆暗闇の中の避難誘導
 日が変わり、12日深夜4時にとても大きな余震があり、再び、津波の懸念が想起され、スタッフは10mおきに懐中電灯をもって立ち、階段で4階へと避難誘導することにした。
 ママ達は、新生児避難具で赤ちゃんを抱いていたため、両手が使え、真っ暗な中でも階段の手摺を伝って、4階に安全に避難できた。無我夢中の15時間が経ち、やっと日の出となった時は希望の光に見えたという。
 日の出すぐから山梨の自衛隊のヘリコプターが隣の空き地に生存者とご遺体をひっきりなしに運んでいた。また、津波は病院から200m手前まで冠水していた。
 ラジオで、「空から見ると荒浜で200から300のご遺体があがっている」と放送があった。不確かな情報しかない中、家が海沿いのスタッフは家族の安否もわからず、不安な中でも懸命に働いてくれた。その後、再会できたスタッフが多い中、震災後1週間経って、助産師2人はお母さんのご遺体と対面することになってしまった。
 震災後、ガソリンがないため通勤できず、2週間、病院へ泊り込みの勤務となった。この非常事態中にあったお産は29件であった。

◆食の維持とプライベート空間・時間の確保を
 八木橋氏は、先の見えない中で、働く人のモチベーションを保つために大切だと思い、実践したこととして、(1)食を維持すること。自然に温かなものを食べてもらうこと、(2)プライベート空間とプライベート時間の確保――を挙げた。(2)では、2人ずつ寝ることにした。これは、勤務時間は職業人として気丈に振る舞っていても、勤務外は弱音や本音を言い合える人と同室にすることが必要であり、まさしく、これが災害看護におけるバディーシステムである。

◆地震や津波被害を想定した訓練と準備が必要
 八木橋氏は、今日まで全国の様々な学会で災害の講演を20回以上こなし、これらの体験と、震災の準備の必要性や具体的な対策を伝えてきた。最後に、「私達は宮城県沖地震に備え訓練し、物品を準備していたので、震災時に起こる様々なできごとに対応できました。現在、首都直下地震の発生の可能性も言われています。どの地域にも地震や津波による被害は起こりうると想定すべきでしょう。被災中でもお産は始まり、進行していきます。そのため、産科医療に携わる者は、どのような状況にあっても最低限安全なお産ができるよう対策を講じることが急務です。そして被災した産婦を不安にさせないことが、私たち看護職の仕事です」と締めくくった。
サイト内検索