公益社団法人 日本看護協会(坂本すが会長)主催の「復興フォーラム2014『被災地の看護は、いま』」が2月11日に開催され、お笑いコンビのサンドウィッチマンが時折、会場を爆笑の渦に巻き込みながら、トークショー「被災地での支援活動と復興への思い」、続いて、「被災地の看護は、いま」をテーマにリレートークが行われ、会場のよみうりホール1100席は満席となった。
◆坂本会長「今こそ看護の力が試されている」
開会のあいさつに立った坂本会長は、以下のように述べた。
2011年3月11日に発生した東日本大震災から3年が過ぎようとしております。このフォーラムは、『被災地の看護は、いま』と題し、看護の目を通して見える被災地域の現状と課題を共有し、今後の使命につながることを目的として企画しました。2100人を超えるお申し込みをいただき、多くの皆様が待ち望んでいた内容なのだと改めて感じるとともに、その反響の大きさに、私達自身も、身が引き締まる思いがいたしました。
この3年間、私自身も何度も被災地を訪れました。被災地の病院や診療所、訪問看護ステーション、介護施設、助産所、自治体等で看護師、助産師、保健師といった看護職がたくさん働いています。自らも被災者でありながら、人々の命と健康を守り、地域を再生し、看護の使命を果たしております。被災地では、皆様一人ひとりが力を合わせ、復興への歩みを進めております。
しかし、いまだに多くの方々が被災生活を余儀なくされています。復興には、これからも時間がかかります。継続した支援がこれからも必要なのです。そのためには、まず、現状を知るということを続けることが大切だと考えています。
想定をはるかに超える被害を受け、まだ戻れない人たちがいて、復興は半ばであり、支援を必要としています。今日、お招きしたご登壇者からご自身の体験や活動について、貴重なお話を聞かせていただけるものと私も期待しております。
未曾有の大地震、津波、原発事故、これまで誰も体験したことのない被害の中で、私達は実に多くのことを学びました。命の尊さは言うまでもなく、家族のあり方、地域のつながり方、そして人々の暮らし方、私達一人ひとりが自身の問題として、震災に向き合いました。想定をはるかに超える災害に対し、どのように備え、どう対処すべきなのか、あまりに過酷な、しかし、大変貴重な体験、経験と教訓がありました。私達はこれを十分に蓄積し、次に備えていくことが必要であります。
復興とは、病める人も健康な人も、その人らしい健やかな生活を取り戻すことです。しかし、いまだにご自身の生まれ育った街、慣れ親しんだ郷里に戻れない方々が大勢います。復興はまだ、道半ばであります。被災地には、まだまだ支援が必要です。あの時、何が起きたのかを知り、これから私達看護職は何をしていくことが必要なのかを、会場の皆様とともに復興の推進と看護の未来を考え、行動につなげていきたいと思います。私達全員で、その力で復興を成し遂げていきましょう。今こそ、看護の力が試されています。日本看護協会はこれから皆様とともに、支援活動を続けてまいります。どうぞよろしくお願いいたします。
◆サンドウィッチマン「僕らは生かされた」
サンドウィッチマンの伊達みきお氏(左)と
富澤たけし氏
続いて、宮城県出身のお笑いコンビ、サンドウィッチマンの伊達みきお氏と富澤たけし氏が、トークショー「被災地での支援活動と復興への思い」と題して振り返った。
2人は、11年3月11日14時46分に発生した大地震の時、宮城県の気仙沼で番組を収録していた。ロケ地は、眼前に海が広がる気仙沼の魚市場前。過去に作動したことがない携帯電話の緊急地震速報の警告音が鳴り、いぶかしんでいると、10秒ほどしてガタガタガタっと、いまだ体験したことのない大きな揺れが始まったという。揺れが収まってから、「僕ら(サンドウィッチマンの2人とテレビクルー)は避難するつもりはなかったが、沿岸の人たち、気仙沼の人たちは、揺れが収まると建物から一斉に外へ出て、高台の方に向かうんですけど、みんなどこへ行くんだろうなあという感覚でした。沿岸の人たちは、『地震=津波』で、逃げるというのは頭に入っているんですが、僕らは、みんなどこにいくんだろうなあという感じで、揺れも収まったし、ロケを続けようかというぐらいのテンションでした、実は」(伊達氏)。
「津波のこともたまに聞きますが、10センチ、20センチとかのイメージだから、僕らはちょっと津波を見てみようかという感じで」(富澤氏)、「せっかくそばにテレビカメラもあるし、津波を(映像で)捉えるにはちょうどいいんじゃないかと言って、見ようかという感じでした。ただ、番組スタッフの『あまりにも揺れが大きい。もしかしたら本当に大きな津波が来る可能性がある』という言葉に従い、バスに乗り込んで高台に避難した。僕らがいたところは8mの津波が襲った。似たような場所に居て、たくさんの方が亡くなったということを聞いたんですが、本当に逃げてよかった」(伊達氏)。
2人は生放送の仕事のため、2~3日後、迎えに来た事務所の車で、10時間以上をかけて東京に戻った。水が出ない、ガスや電気がつかない状況の宮城から、目黒駅前の事務所に降り立った時、カラオケの店員からカラオケはいかがですかといわれ、「あっ、東京はもうこんな感じなんだよ、“カラオケいかがですか”の感じ、それにびっくりした。あっ、東京はもう全然違うんだな、宮城とは」(伊達氏)と振り返る。
2人は、「あの津波を本当に目の前で見て、流されている家だったり、人だったり、車だったりを本当に目の当たりにして、何かできることはないのか。『僕らは生かされた』なと、逃げて無事だったわけですから。僕らは伝える仕事、テレビだったりラジオだったりで伝えることができる仕事をしているので、『これは動かないといけないな、地元ですし』。そういう思いがすごく強かった。僕たちも友だちを亡くしたり、親戚を亡くしましたので、そういう思い」から、支援活動を始めることにした。
避難所となっている仙台市の母校の小学校には2000人が避難し、炊き出しを伊達氏の父親も手伝っており、そんな中で東京に帰るのは複雑な心境であったが、「親父から、伝える仕事しているのだから、この実情を東京で伝えなさい」(伊達氏)と背中を押され、東京に戻った。
2人もそうだったが、多くの人たちが「あの人大丈夫かな」と絶えず心配し、安否の手がかりを探している状況下で、テレビ局に対しては、「同じ場面ばかりを放映せず、テレビの大きな力で、少しでも顔や名前を多く映して下さい」と訴えたという。
2人はまた現在、被災3県を中心とする東北では、かなりの人たちが元気になってきていると感じており、前日(2月10日)に訪れたいわき市では、まだ大変な地区も多いが、以前と比べるとかなり元気になっている。震災後の1~2年は、あの日の話はしたくないという人が多かったが、今は、当時の状況を向こうから話そうとする人、聞いてくれという人が増え、3年という年月は大きいと感じているという。
2人は、被災地の状況によって立ち位置は変わるものだから、それに配慮して、まだ笑いは誰も求めていないだろうと、当初は、現金集め(チャリティー募金)にいそしんだ。東京では、「芸人なんだから笑いで元気づけてよ」という人がいたが、実際、被災地に入るとそんな雰囲気ではないため、震災直後の1年間は被災地でのお笑いライブはできなかったという。
また、そのときに、いろいろな歌手が避難所で歌ったり、チャリティーライブを開催してくれ、改めて「音楽の力はすごいな」と感じたという。震災後、1年以上が経過したとき、自らの判断で笑いを解禁し、お笑いのチャリティーライブを開催した。大船渡や、南三陸町の仮設のサンサン商店街などで、観客がたくさん集まってくれ、心底、嬉しかったという。
◆観光で東北にたくさん人を呼ぶことが「役割」
震災後3年が経過するが、2人は「僕らの役割は何かな」と自問し、今は、全国から東北にたくさんの人を観光で呼ぶことが役割であると思っているという。松島、気仙沼の観光大使にも任命され、「東北には、おいしいものもたくさんあり、観光地といわれているところはほとんどもう復活しつつあります。是非とも来て下さい」と呼びかける。
お奨めの1つとして挙げたのが、完全復活した大きな水族館「アクアマリンふくしま」。そこでは、大型水槽にたくさんの魚が泳いでいるが、その水槽の目の前に寿司屋があるという。「魚を見ながら、寿司を食べる。衝撃ですね。震災前はなかったが、急にしつらえた。寿司が食べられるという“攻め”の水族館ですね。水槽があって、隣を見ると板前がいるから面白いと思って、寿司を食べたけど、水槽の魚を食べるわけじゃないですよ」(伊達氏)と説明。女性司会者が「良かった」と胸をなでおろすと、「水槽の魚は食べないですよ。生簀じゃないですから」、「“牧場でバーベキュー”的な」とすかさずツッコミをはさみ会場を沸かせた。
◆さまざまな支援のかたち、災害看護に感謝
また、印象に残っていることとして、高速道路が封鎖されたまま、一般道も復旧が不十分ななかで、袖ヶ浦ナンバーの軽トラックが給料1カ月分の食料を満載して、下道を使って南三陸町に入り、食料を配り、河原で野営しながらボランティア活動を手伝ったうえ、「よろしければ使ってください」と車までも置いて帰った人がいるという。
数多く訪れた南三陸では、居酒屋に吊るしていた店名を記した浮き(ブイ)がアラスカに漂着し、それをテレビ映像で見つけて返送を依頼したところ、その浮きが戻り、海辺で再開した居酒屋がある。「一度、津波で流されて、再び、海の近くに仮設の店舗を建てる。何でまた、危ないところに建てるのですかと聞いたところ、『ここでやらないと意味がない。港町は海のそばで繁栄してきた町だから、高台の海の見えないところでやってても意味がない』。あんなに被害にあったのに、また、海とともに生きようとしている人がたくさんいる」(富澤氏)と、海辺の人たちの心情を話す。
塩釜から船で30分の桂島は、大津波が襲ったが、亡くなった人はゼロ。これは、コミュニティがしっかりできており、常日頃、青年団が高齢者の所在地を全部把握し、地震直後に高齢者を軽トラックでいち早く避難させた結果という。
宮城県山元町では、仙台イチゴの農園が津波で流されてしまったが、東京都中野区からのボランティアの中年男性は震災直後からイチゴ農地の復興に携わり、イチゴの栽培やその土地が気に入って、そのまま移住してしまったという。
災害看護のエキスパートの石井美恵子さんをはじめ、全国各地から看護師さんの団体、助産師さん、学生ボランティアの人たちが東北に入って助けており、2人は「本当にありがたいことです」と感謝を述べ、「我々もがんばっていきたい」と決意を新たにした。
◆被災地沿岸部でライブ、東北の状況伝えたい
毎年恒例の全国単独ライブツアーは、去年も全国12カ所18公演をこなす中で、被災地沿岸部という立地としては、震災後初となるいわき市を会場の1つに選んだ。多くの感謝の言葉がかけられ、涙を流す人もいて、やってよかったと述懐した。
2人は、今年も被災地の会場を含めた全国ツアーをやると決めており、「震災後3年を越えても、5年を越えても東北を応援し、同じ活動を続ける」考えだ。伊達氏は、時に「お笑い芸人なのにそういう活動はやめたら」と言われることもあるが、「僕はそうは思わないので、続けていきたい。笑いでみんなが元気になる、笑いで長生きになり、笑うことは認知症予防になる。仮設住宅では引きこもりの高齢者が増えるが、屋内から外へと誘導する、外出するきっかけになるイベントを考えている。今年の3月11日は、恒例の気仙沼を訪れて、そのとき(震災時)の状況を思い出して、黙祷して、テレビカメラも入るんですが、現状を伝えたい。東北は大丈夫だよという報道ばっかりだと、全国の方が大丈夫なんだって一回離れてしまう。大丈夫にはなってきてはいるけども、まだまだこういう状況ですよというのを僕らはちゃんと伝えないといけないと思っている。広く伝えていきたい」と抱負を語った。