すべてはネットの時代について
行けない人はかなりいるのだ
老いさらばえた一人の男がローカルの野球試合を観ている。彼はプロの球団のスカウトマンであり、多くの有能な人材を発掘したことで知られている。しかして、眼は急速に衰え、スタンドでつまずいてしまうほどなのだ。彼が追っているのはローカルの高校生で、久方ぶりの逸材と評価されている。ホームランを連発するだけでなく、流し打ちも上手く、小技も利くというスーパーヒーローだ。
一方、球団には今時の若手スカウトマンがおり、彼はコンピューターを駆使し、あらゆる試合、あらゆる有望選手のデータを集め、一切野球の試合を観ることはない。このネットの時代に、直接遠くのローカル球場に足を運ぶ必要はないと考えている。
こうした設定で物語が展開する映画『人生の特等席』は、実に痛快で泣かせる優れものだ。クリント・イーストウッドが扮する老人スカウトマンは、新聞を丹念に読み、どんなに遠くの球場であっても足を運び、自分の眼で人材を発掘していく。一方の若いスカウトマンは「データがすべて」であり、「データこそリアル」と信じており、老人スカウトマンのやり方にひどく批判的なのだ。
「コンピューターのデータだけで何が分かるというのだ。その選手のクセ、来た球に対する反応、試合によって異なるプレーなど足を使ってこの眼で見なければ何も判断できない。将来性を見抜くためには過去のデータだけではダメなのだ」
引退の迫っている老人スカウトマンは、コンピューターおたくの若手スカウトマンにこう食ってかかるのだ。映画の結末としては、老人スカウトマンの判断は正しく、若手スカウトマンが無理やり押し切って採用した逸材は「カーブが全く打てない」欠点を露呈し、使いものにならないことが判明する。コンピューター社会の米国においても、パソコンはおろか、タイプライターだって使えないアナログの老人たちがいっぱいいるのだ。時代に取り残された老人たちが、クリント・イーストウッドの芝居に対し快哉を叫び、おそらく映画会場では拍手すら沸き起こったに違いない。
ブログ、フェイスブック、ツイッターというネット全盛の時代がやってきても、人材の評価だけはデータのみでは決まらないことをこの映画は示唆している。ある若手の新聞記者と話していたら、「ぼくは直接取材には行きません。それは時間のムダ。ネットで質問状を送りつけ、そのアンサーをベースに記事を書くんですよ」と言っていた。筆者はバリバリのアナログ記者であり、どのような場合の取材もFACE TO FACEインターフェースを重視している。それゆえに、この若手記者の言い分には「それは違うぜ!」との思いが強かった。
直接会わずして、どのように相手の反応を探るのだろう。こちらの質問に対し、一瞬の間を持って考え込む相手の表情。眼の動き。手ぶりのクセ。舌をなめる様子。話し方の緩急。そして声量の大きさ。喜怒哀楽のわずかな表面現象。そうしたことを見て記者は取材相手の胸の中にあるもの、もしくは相手の語ることの向こうに拡がっているものを探っていくのだ。これこそ、コンピューターにはできないヒューマンワークなのだ。
取材や講演の関係で筆者は全国を回ることが多い。ホテルも数限りなく泊まっているが、現段階で最高のランク付けをしているのは鹿児島の城山観光ホテルだ。このホテルでは温泉につかりながら、桜島が観られるという特典がある。出される料理も黒豚、黒毛和牛をベースに実にうまい。しかし、自分が最も評価するのは、このホテルの従業員の対応にある。人的サービスこそが宝物なのだ。
ところで、くだんの映画『人生の特等席』は、もう1つ名ゼリフのシーンがある。親子の関係が様々な理由によりぎくしゃくして、複雑な心境にある老人スカウトマンの娘が涙ながらに語ることは、幸福論とは何かを如実に表している。一流の弁護士を目指し、富と名誉を追求している娘が、本当はそんなものいらないとして、次のようなことを語るのだ。
「子供のころ、お父さんと過ごした時間が私にとってはすべてだった。汚いモーテルに泊まり、ビリヤードのある男臭い安酒場で遊び、手をつながれて遠くの球場に一緒に行った日々。それが私の人生にとっての特等席だったわ」
■
泉谷 渉(いずみや わたる)略歴
神奈川県横浜市出身。中央大学法学部政治学科卒業。30年以上にわたって第一線を走ってきた国内最古参の半導体記者であり、現在は産業タイムズ社社長。著書には『半導体業界ハンドブック』、『素材は国家なり』(長谷川慶太郎との共著)、『ニッポンの環境エネルギー力』(以上、東洋経済新報社)、『これが半導体の全貌だ』(かんき出版)、『心から感動する会社』(亜紀書房)など19冊がある。日本半導体ベンチャー協会会長。全国各地を講演と取材で飛びまわる毎日が続く。