1956(昭和31)年という年は太平洋戦争後の経済復興期にピリオドが打たれ、空前の大好況の年となった。7月に発表された経済白書は「もはや戦後ではない」と明言し、この年の国民所得はなんと前年に比べ1割以上も増えた。設備投資も、5割増というサプライズであった。
こうしたことで消費文化は急速に贅沢になっていった。テレビの家庭普及は進み、この年の11月には30万世帯に浸透するという増加ぶりであった。しかしながら、若者たちは不思議なことに夢を失い、退屈な日常生活を感じ始めていた。つまりは、昭和20年代のようなすさまじく上がっていくエネルギーが失われていた。文学の分野も停滞し始めていた。
このような時期に、石原慎太郎という一橋大学の大学生が書いた小説『太陽の季節』が登場したのである。この作品が芥川賞を受賞するや、その人気は爆発的になった。あらゆる新聞、雑誌などが争って石原慎太郎を追いかけ始めた。『太陽の季節』を載せた文藝春秋はものすごく売れ、単行本はベストセラーになった。放埓な遊びに狂い、セックスにおおらかな若者たちを揶揄し「太陽族」という言葉も生まれた。
石原慎太郎が芥川賞デビューした昭和31年は
トランジスタ興隆期
「慎太郎がり」なる髪型もできるほどであったのだ。石原慎太郎の作品は次々に映画化され、彼自身も俳優として出演したりもした。そしてまた、慎太郎の弟である石原裕次郎が映画に出始めると、史上空前の裕次郎ブームが巻き起こったのだ。
今時の人は、石原慎太郎については東京都知事を務めた14年間の印象しかないかもしれない。ひらすら右寄りであり「三国人」「支那」いう言葉を連発し、とりわけ韓国や中国からの不興をかったのだ。
ところが、石原慎太郎の都知事時代にやったことは、実はかなりの意味のあることであった。アメリカに対して横田基地の返還を求めるという姿勢を見せ、単なる右寄りではなく、リベラルな思想も持っていたことが分かりはじめる。財政再建にも取り組み、東京都の会計制度を単式簿記から複式簿記に切り替えさせ、財政を一気に好転させた。
そして、東京を走り回るトラックのディーゼルエンジンによる排気ガスの規制を断行し、東京の空を見事に回復させていく。さらに羽田飛行場の国際化に取り組み、国内外の要人らは来日出国の際に都心から遠い成田を使わずに済むようになった。現在において、観光で外国に出かける際にも、一般人もまた便利な羽田空港を使うことが急増したのである。
石原慎太郎は昭和31年にウルトラスーパースターとして登場し、時代の空気を一変させたのであるが、このころ半導体の世界でも、トランジスタ旋風が吹き荒れていた。この分野で先行していたソニー(東京通信工業)は、月産30万個体制を確立した。昭和30年にソニーが発売した「TR-55」「TR-72」は小型で電池代が安いなどの理由で爆発的なヒットとなる。真空管時代から、トランジスタ時代への突入となった。
このソニーの動きに刺激されるかたちで、東芝は横須賀工場でトランジスタの試作を開始する。日立製作所は中央研究所の中にトランジスタ部を新設する。NECは半導体開発部を設置し、三菱電機もトランジスタ試作工場を作り、富士通は通信向けトランジスタで成果を上げていく。ニッポンにおける半導体時代の本格的なはじまりであったのだ。
若き日の石原慎太郎が大活躍を見せた時代は、ニッポン半導体の初期における急成長とクロスオーバーしているのだ。しかしながら、石原慎太郎は一方で、「死」を基本テーマに据える作家としても知られている。『太陽の季節』をはじめとする青春群像は、無軌道で荒々しく、かつスマートである若者たちを描いているが、その裏には「人間にとって死とは何か」という重い命題が横たわっているのである。作家をやりながらの25年間の国会議員生活、そしてその後に東京都知事として君臨した時代にあっても、彼はひたすら「このようなニッポンでは、どのような繁栄を築いてもいつか凋落し、死を迎えるだろう」という発言を繰り返していた。
いい意味でも悪い意味でも、石原慎太郎は時代を映す鏡であった。ニッポン半導体の爆裂成長、世界制覇、30年間にわたる後退、そして新生ラピダスによる復活を読み込んでいたとしたら、何という素晴らしい予言者であったかと思えてならない。
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泉谷 渉(いずみや わたる)略歴
神奈川県横浜市出身。中央大学法学部政治学科卒業。35年以上にわたって第一線を走ってきた国内最古参の半導体記者であり、現在は産業タイムズ社 取締役 会長。著書には『自動車世界戦争』、『日・米・中IoT最終戦争』(以上、東洋経済新報社)、『伝説 ソニーの半導体』、『日本半導体産業 激動の21年史 2000年~2021年』、『君はニッポン100年企業の底力を見たか!!』(産業タイムズ社)など27冊がある。一般社団法人日本電子デバイス産業協会 理事 副会長。全国各地を講演と取材で飛びまわる毎日が続く。