インテル創業者のゴードン・ムーアが先ごろ死去された。94歳という長命であった。同氏は1968年7月18日にロバート・ノイスとともにインテルを設立した。翌年の8月には従業員第1号としてアンドリュー・グローブを採用したのである。
1965年にゴードン・ムーアが唱えた「ムーアの法則」は半導体の製造・生産における経験則を発見したものであり、集積回路あたりのトランジスタ数が毎年2倍になると予測したのであるが、これは全くもって鋭い指摘であった。ムーアの法則を無視して将来の予測はできないとさえ言われたのである。
ところが2010年代後半になるとムーアの法則は維持できなくなるという声が多くなってきた。そこでビヨンド・ムーアまたはモア・ザン・ムーアなどという言葉が流行語となってきたが、ここにきてまたムーアの法則は見直されているのである。
「最近になってメタバース革命が言われ始め、これに伴うエッジコンピューティングが出てきたことで超高速、超微細加工の世界はさらに進化していくばかりなのだ。そうなってくるとこれ以上の開発はいらないとしてきた人達も、必死になってムーアの法則をもう一度追いかけ始めた。まさにムーアという存在は非常に大きかったのである」
こう語るのは半導体業界におけるナンバーワンアナリストとして知られる南川明氏である。ちなみに南川氏はインテルにとっては天敵というべきモトローラ半導体の出身であるが、最近はインテルをべた褒めしている存在になってしまった。
それにしてもムーアの死によって半導体の草創期を知る人間がさすがにいなくなった。1936年にマサチューセッツ工科大学からベル研究所に入ったウイリアム・ショックレーが本格的な半導体の研究に取り組んだことは有名な話である。そして1947年12月23日にウイリアム・ショックレー、バーディーン、ブラッテンによってトランジスタの発明がされ、まさにこれが半導体産業の夜明けであったのだ。
ウイリアム・ショックレーはその後ショックレートランジスタという会社をつくり、ここには天才的とも言われる研究者や技術者がたくさん集まった。しかして有能な人達はぐずぐずしているショックレーに不満を持ち、ついに反乱を起こす。ロバート・ノイス、ゴードン・ムーアをはじめとしてハーニー、ラスト、グリニッチ、ロバーツ、クライナー、ブランクの8人であり、のちにショックレーが裏切りの8人と呼んだ人たちである。そして彼らを中心にフェアチャイルドという会社が設立される。これが世にいうシリコンバレーの始まりであった。
さてゴードン・ムーアは1975年から87年までインテルのCEOを務めたが、インテル社が世界の頂点を極めていくことに大きく貢献した人である。とりわけすごかったのが、世界のエレクトロニクスを動かす一大発明、インテルによるマイクロプロセッサー4004の誕生である。しかしながらこれはインテルが製造に成功するが、流れとしては日本の電卓がポイントであった。電卓メーカーのビジコンの子会社である電子技研にいた嶋正利がアイデアを出し、製造の方はインテル社の技術者であるテッド・ホフが担当した。今や世界のパソコンの80%がインテル製のマイクロプロセッサーを搭載している。ムーアが作ったインテルのCPUは不滅ともいうべき強さを維持しているのだ。
しかしてゴードン・ムーア、ロバート・ノイス、アンドリュー・グローブなどに仕えた傳田信行氏はのちにインテルの副社長にまで上りつめるが、4004は当初全くパソコンを予想していなかっとしてこう述べるのである。
「私はインテルジャパンの第1号社員であったが、4004の出口を必死になって探していた。行きついた最大のアプリはキャッシュレジスター、つまりは現在のPOSターミナルである。東京電気への売り込みに成功した。これで4004の基礎が築かれた。その意味ではインテルが伸びていく時には、必ず日本メーカーが関わっている。切っても切れない関係というのはこのことである」
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泉谷 渉(いずみや わたる)略歴
神奈川県横浜市出身。中央大学法学部政治学科卒業。35年以上にわたって第一線を走ってきた国内最古参の半導体記者であり、現在は産業タイムズ社 取締役 会長。著書には『自動車世界戦争』、『日・米・中IoT最終戦争』(以上、東洋経済新報社)、『伝説 ソニーの半導体』、『日本半導体産業 激動の21年史 2000年~2021年』、『君はニッポン100年企業の底力を見たか!!』(産業タイムズ社)など27冊がある。一般社団法人日本電子デバイス産業協会 理事 副会長。全国各地を講演と取材で飛びまわる毎日が続く。