六本木の裏通りにある小洒落たバーで、ドライマティーニ・オン・ザロックを一人でまったり飲んでいた時のことである。ふと隣を見ると、筆者とは似ても似つかぬダンディーでスマートでイケメンで渋い中年男が座っていた。そして何かを考えるようにして時々首をかしげながら手元にある小さな手帳に目を落としていた。客は数人しかない。
スロージャズの流れる中で、かけがえのない時間がそこにはあったのである。ぎーっというドアの音がして、とても素敵な赤い服を着たアラサーの女性が雨に濡れながら、一目散にバーカウンターに近づいてきた。いうまでもなく、筆者ではなくそのダンディー男の隣に座ったのである。すがりつくような目線で男を見つめていたが、あきらめたように下を向いてその女性は小さく呟いた。そしてこの男女の物語ともいうべき会話が始まる。
東京という都会の片隅には、今日も
男と女の小さな物語が生まれている。
「昨夜はどこにいたの」
「そんな過去のことは全く覚えていない。」
「今日はこれからどうするの」
「そんな未来のことはわからない」
「男はどうして大切なことをはぐらかすのかしら」
「男は優しくなければ生きてはいけない」
「あなたはちっとも優しくないわ」
「男の資格は断る勇気があることだ」
筆者はこうした都会の片隅にあるラブストーリーの小さな場面を見てしまったのかもしれない。しかして心の中に思ったことは男のセリフの中の「優しくなければ生きてはいけない」という一節であった。この言葉を昼間の取材中にある企業から聞いたからである。半導体材料を扱うことで有名であり、かつビッグシェアを持っているそのカンパニーの会長はこう言い放ったのだ。
「これからの企業は環境にやさしくなければ生きてはいけない。そしていつだってどこだってエネルギーを使わない工夫をしない企業は存続する資格がない。今はSDGs革命の時代なのだから」
確かに世界全てをあげてSDGs革命が推進されようとしている。直近の10年間で1000兆円、2050年のカーボンゼロの時までには3000兆円の巨額が投資されるのであるからして、サプライズ以外の何ものでもない。自動車産業にあってもこれまでのエンジン車から排出されるカーボンをゼロにするべくエコカーへの急速シフトが始まりつつある。EV(電気自動車)であっても燃料電池車であっても、徹底的なCO2対策が必要となっているのだ。
筆者はこの間に広島のマツダの代表取締役、トヨタ自動車九州の社長などを次々と訪問してSDGsについても伺ってみた。返ってくる答えは当然のことながら、次世代エコカーを達成しない限り、企業として生きている資格はないという明確なコメントであったのだ。
さてEVに持っていくとしたら、自動車本体そのものではカーボンゼロになるかもしれない。ところがガソリンの代わりにリチウムイオン電池に電力をため込んでEVは走るのである。その電力は誰が作るのだ。結局は世界中に膨大な発電所を作っていかなければならない。原子力発電はリスクを恐れて着工しないケースが増えている。水素エネルギー発電という手もあるが、今のところは石炭、石油、シェールガスという化石燃料を使った火力発電所が中心になっていくだろう。何のことはない。EVによるカーボンゼロを目指すためには化石燃料の発電所をいっぱい作って、膨大な量のCO2を排出するという二律背反のドラマが待っているのだ。
そしてDX革命が進展すればするほど、通信の高速性が高まれば高まるほど、巨大なデータセンターを建設しなければならない。今や世界の全消費電力の5%をデータセンターが占有している。近いうちには何とこれが10%になるというのだ。EVにせよデータセンターにせよ、絶対に必要な時代の要請であるからして、この拡大を止めることはできない。
「この絶対的な電力不足をどうしてくれるんだ。もうどうにもならない。どうにも止まらない。生きている資格なんぞはどうでもいい。電力問題を何とかしろ!」
そう心の中でつぶやいてバーカウンターの隣の席を見たところ、その二人のカップルはもういなかった。「なんだかんだ言ってもうまくいってるじゃん」と舌打ちして、筆者も氷雨に打たれてさみしく一人で帰ったのであった。
■
泉谷 渉(いずみや わたる)略歴
神奈川県横浜市出身。中央大学法学部政治学科卒業。35年以上にわたって第一線を走ってきた国内最古参の半導体記者であり、現在は産業タイムズ社 取締役 会長。著書には『自動車世界戦争』、『日・米・中IoT最終戦争』(以上、東洋経済新報社)、『伝説 ソニーの半導体』、『日本半導体産業 激動の21年史 2000年~2021年』、『君はニッポン100年企業の底力を見たか!!』(産業タイムズ社)など27冊がある。一般社団法人日本電子デバイス産業協会 理事 副会長。全国各地を講演と取材で飛びまわる毎日が続く。