人生においては常に迷いの連続がある。せっかくのチャンスを目の前にしているのに「どうしよう!」と悩んだり、「もしも失敗したら」と頭を抱えたりもする。そうした時に、アントニオ猪木の「道」という詩を朗読してみればよい。それは次のようなものだ。
「この道を行けばどうなるものか 危ぶむなかれ 危ぶめば道はなし 踏み出せば その一足が道となり その一足が道となる 迷わず行けよ 行けばわかるさ」
「耐えて勝利のアントニオ猪木が大活躍した時代は
ひたすら忍耐の「おしん」も大ヒット
(産業タイムズ社刊『日本半導体50年史』より)」
これは1998年4月4日、東京ドームに7万人の観衆を集めて行われた引退セレモニーの際に、アントニオ猪木がしっかりとした声で披露した詩なのである。猪木の若い頃から引退に至るまでを、ずっと見続けてきたファンも会場には多かった。おそらくは泣きながら、この詩をかみしめていたに違いない。
猪木のプロレスはいうところのストロングスタイルである。華やかなサーカスのようなプロレス、フェイクの多いプロレス、ただ殴る蹴るだけのプロレスとは一線を画していた。双方ともに鍛え上げられた体でぶつかり合い、最高の技をぶつけ合うというのがストロングスタイルなのである。
しかして55歳で引退を決めた猪木の体はボロボロであった。激しい闘いの日々に骨は折れ、筋肉は割れ、そして血を流すことも度々であった。ファイナルカウントダウンの十番勝負を戦った猪木の試合は、正直いって痛々しくて見ていられなかった。
ある時は片手を痛めていて、一本の手だけで戦っていた。あるときは朦朧として自分の居場所さえわからなかった。そして何よりも、往年のスピーディな動きをほとんど見せることができなかった。
この十番勝負では、必殺の切り札である卍固めを一回も見せることが出来なかった。膝、太もも、腰、腕の力が全くもってなかったからだと思えてならなかった。もう一つの必殺技である延髄斬りも空を切ることが多かった。この十番勝負を一緒に見ていたプロレス好きの同級生は、ビールをあおりながらこう言っていた。
「むごたらしくて見ちゃいられない。こんなになる前になぜ引退しなかったんだ。俺はもうこんな猪木を観たくない。情けないったらありゃしない。」
「うーん。そうだよね。」と彼に相槌を打ちながら、彼のその眼を見た時にはっとなった。涙が浮かんでいたからである。
この頃の猪木には、もう決め技はほとんどなく、裸絞め、つまりはスリーパーホールドという技や、一瞬をついての固め技だけで決めていた。しかして筆者は、猪木は今やれるだけのことはすべてやっていると思えてならなかった。そしてまた、全盛期の頃に見せたバックドロップ、弓矢固め、ブレーンバスター、腕ひしぎ逆十字固めなどの大技を心の中に浮かべていた。かつての猪木のスピードと力を二重写しにしながら、試合を見ていた。
おそらくは、引退試合に駆け付けた7万人の観客の多くが、猪木という不世出のレスラーの歴史と生き様をかみしめながら、かつての雄姿を脳裏に浮かべながら観ていたに違いない。そしてまた、観客たちは、自分たちが生きてきた80年代、90年代の人生をフラッシュバックさせながら、試合を楽しんでいたのであろう。衰え果てた猪木を見ながら、自分自身の職場における戦いを反復する走馬灯のようなドラマが、形而上学的にそこには生まれていたのだ。
非常に難しい病気にかかり、命を落とすかもしれないという病床に猪木は今あるのだ。それでも「最後の闘魂」を見せてYouTubeでお得意のあおりである「ダー!!」をやっていたりもする。アントニオ猪木の最後の戦いは「みんなの心の中に咲く卍固め」というミラクル技なのであろう。
こうした猪木の戦いを見ているとつくづく思うことがある。思えばニッポン半導体も80年代に絶頂を極めていたが、いまや世界シェアの10%も持っていないところまで追い詰められた。しかして、起死回生の逆転をかけて、異次元の半導体の国家支援策を開発および工場設備のすべてにわたって断行しようとしている。
これぞ猪木の卍固めに二重写しになってしまうと考えるのは、筆者の歪んだ思いであろうか。とまれこうまれ、猪木頑張れ!! ニッポン半導体頑張れ!!
(「企業100年計画ニュース」から転載)
■
泉谷 渉(いずみや わたる)略歴
神奈川県横浜市出身。中央大学法学部政治学科卒業。35年以上にわたって第一線を走ってきた国内最古参の半導体記者であり、現在は産業タイムズ社 取締役 会長。著書には『自動車世界戦争』、『日・米・中IoT最終戦争』(以上、東洋経済新報社)、『伝説 ソニーの半導体』、『日本半導体産業 激動の21年史 2000年~2020年』、『君はニッポン100年企業の底力を見たか!!』(産業タイムズ社)など27冊がある。一般社団法人日本電子デバイス産業協会 理事 副会長。全国各地を講演と取材で飛びまわる毎日が続く。