電子デバイス産業新聞(旧半導体産業新聞)
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第452回

いつもいつも負け続けるチームにも、希望の灯はある


1965年の第2の黒船「TI日本上陸」の時のニッポン勢の頑張り

2021/10/8

 2021年9月26日のことである。DeNA横浜ベイスターズは、ついに6連敗を喫し、セリーグプロ野球の最下位に沈んでしまった。エースの今永を出して背水の陣で臨み、新人王の有力候補者と言われる牧選手の2ランで先制し、大いに意気は上がった。しかしてその後、逆転を許し、6対3で負けていたのだが、終盤に入り4番オースティンの起死回生とも言うべき逆転満塁ホームランでリードし、さらに3番佐野のダメ押しとも言うべきヒットでリードした。投手陣はエスコバー、三島とつなぎ、守護神の山崎を投入したが、これが大誤算であった。

 山崎の魔球とも言うべきツーシームは、沈み方が緩く、もう往年の威力が無かったのだ。滅多打ちされて、再逆転を許し、惨めなまでの負け試合となってしまった。横浜スタジアムに集結したファンの連中は、「エースを出して4番が打って、それでも勝てないのならば、もうどうにもならない」とばかりに、大泣きしている人が多かったという。

 筆者はこうした様子をテレビで観戦していたが、いつもいつも負けてばかりいる球団を応援することの苦しさ、虚しさ、辛さ、そして二律背反ではあるが喜びというものを、またも噛みしめていた。横浜ベイスターズは、前身の大洋ホエールズの時代を入れても、ペナントで優勝したことはたったの2回しかない。簡単に言えば、いつもいつも最下位を争っている球団なのである。

 人気のある読売ジャイアンツのファンは、負け試合を見るのが嫌で、7回くらいになれば多くの人が席を立ち、帰路についてしまう。しかして、ひたすらに弱い球団である横浜を応援する人たちは、決して帰らない。そこにあるものは、愛しさと切なさと、そして明日への希望だけなのである。

 どうやっても勝てない相手に立ち向かっていく横浜ベイスターズの姿は、実のところ美しいのである。数年前にあろうことかギリギリでセリーグの3位に浮上し、なんと日本シリーズで日本一を争う戦いになった時には、このミラクル逆転劇に筆者は狂喜乱舞した。1998年の甲子園における2回目の優勝にも匹敵するほどの出来事であった。

横浜の38年ぶりの優勝はまさにミラクルであった!!(出典:産業タイムズ社発刊「日本半導体50年史」)
横浜の38年ぶりの優勝はまさにミラクルで
あった!!(出典:産業タイムズ社発刊
「日本半導体50年史」)
 ちなみに、筆者は98年の優勝の瞬間は、編集長の仕事を1週間も放り出して、甲子園球場にいた。何しろ38年ぶりの優勝なのだ。泣いて泣いて泣きまくる、という胴上げの感動を今も忘れない。そして、負け続けた日々のことを思い返していた。閑古鳥の鳴くガラガラの川崎球場で、王、長島を相手にたった一人で立ち向かう平松投手のカミソリシュートを思い出していた。『行くぞ大洋』を大声で歌った。

 それはともかく、絶対に勝てない相手に挑むという美学は、半導体の世界においても、いくつも例のあることなのである。前の東京オリンピックが開催された1964年の次の年のことであるが、当時、世界シェアの3分の1を押さえる最大最強の半導体メーカー、米国テキサス・インスツルメンツ(TI社)は日本における子会社設立要求を、日本政府に突き付けていた。TIはかなり強引な手法で日本進出を果たすべく交渉を続けていた。TI社は「日本進出を認めないならば、TIの持つキルビー特許を使わせない」とまで言っていた。よく知られているように、キルビーの発明したIC特許は、TIの持つ黄金の看板であり、これが使えないならば、国内の半導体メーカーはICを作れなくなる。そこまで追い詰められていたのだ。

 当時のマスコミは一斉に、「第2の黒船来たり」「テキサスの暴れん坊の暴挙」と書き立て、危機感をいやが上にも煽ったのだ。結果的には、TIは日本に進出し、特許問題も1967年になってようやく解決を見ることになる。

 筆者はパシリの記者であった若い頃に、このTI問題について追取材をしていたが、とりわけ日立製作所は苦難が続いていた。日立の場合、RCA社とICに関する技術提携を行っていたが、何回やってもMOSトランジスタは特性がガラッと変わってしまい、全く使い物にならなかった。しかしながら、日立はこの壁を苦難の末に乗り越えていく。この頃、第4代武蔵工場長に就任していた伴野正美氏はこう語っていた。

 「新しいものをやるのは本当に骨が折れますね。何しろ基礎技術やノウハウが何もない。全部自分でやり直して確認しないとわからない。そのたびに、材料の組み合わせや処理方法を工夫していた。しかしながら、社内のあちこちから、MOSICができないとは何事か、との批判が相次いでいた」

 生みの苦しみとはこのことなのである。日立製作所が苦難の中で、MOSIC量産に向けて突き抜けた頃、ソニーはIBMなどと提携し、多角化、グローバル化を推進していた。日本初のオール・トランジスタ・ステレオ・アンプの量産発売に成功したのである。ちなみにソニーは、1967年に何と、TIとの合弁会社を作る。ソニーTIの誕生である。このことを知る人は、いまや少ないだろう。

 そして、IC開発で一歩先行していたNECは、1967年に世界初のMOSメモリー試作に成功する。東芝もまた、世界一のダイオードの開発に成功し、頭角を現していた。

 最強の敵であるTIが日本に上陸した時、国内の半導体エンジニアの胸には、ただ一つ、「負けて負けて負け続けているが、必ずや商機を見つけて逆転を図ってみせる」という希望の灯がともっていた。負ける情けなさがカラダにしみこんでいた日本勢は、ここから大逆転を図り、1980年代後半には得意のDRAMで世界を席捲し、半導体王国ニッポンを作り上げるのである。


泉谷 渉(いずみや わたる)略歴
神奈川県横浜市出身。中央大学法学部政治学科卒業。35年以上にわたって第一線を走ってきた国内最古参の半導体記者であり、現在は産業タイムズ社 取締役 会長。著書には『自動車世界戦争』、『日・米・中IoT最終戦争』(以上、東洋経済新報社)、『伝説 ソニーの半導体』、『日本半導体産業 激動の21年史 2000年~2020年』、『君はニッポン100年企業の底力を見たか!!』(産業タイムズ社)など27冊がある。一般社団法人日本電子デバイス産業協会 理事 副会長。全国各地を講演と取材で飛びまわる毎日が続く。
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