1973(昭和48)年という年は、戦後猛スピードで駆け上がってきた日本経済に急ブレーキがかかった年であった。第4次中東戦争に端を発したオイルショックは、狂乱物価を引き起こし、超インフレ状態をもたらした。ガソリンはこの年の9月に48円だったものが、11月には61円に引き上げられた。トイレットペーパーは4個入り160円のところが、一時360円と倍以上にもなった。血走った目でトイレットペーパーを買いあさる主婦の姿があちこちに見られる状況であった。
狂乱物価で揺れたこの年、1頭のサラブレッドが日本中を沸かせる大ブームを作る。公営競馬の怪物として、鳴り物入りで中央競馬に移籍したハイセイコーは、まさに国民的アイドルとなり、NHK杯まで10戦10勝の不敗神話を作った。そしてまたこの年、甲子園に現れた怪物は江川卓であった。作新学院のエースとして登場した江川は準決勝で広島商業に敗れたものの、4試合で60奪三振の大会新記録を達成し、その剛腕ぶりはまさに怪物であった。
テレビの世界でも怪物番組が誕生していた。ザ・ドリフターズが主演した『8時だョ!全員集合』は視聴率がなんと50%を超えるお化け番組となったのだ。
半導体の分野においても世界の怪物と言われた米国の半導体メーカー、テキサス・インスツルメンツの日本法人が鳩ケ谷工場に続く、第2の拠点を大分に誕生させた。日本テキサス・インスツルメンツ日出工場である。世界最大の半導体メーカーであったテキサス・インスツルメンツはTIと呼ばれ、十数年間にわたって世界生産ランキング第1位の座を獲得していた。
TIの量産ラインは歩留まりの良いことで知られ、製造コストの低さも群を抜いていた。例えばこのころ、Nパッケージの7400は、日本メーカーの場合、100円以上でなければ作れなかったが、TIはなんと54円で出荷していた。組立歩留まりは驚異的な数字をはじき出しており、実に92%であった。
それにしても、TIは日出町という実にロケーションの良いところに立地していた。周辺には国宝の富貴寺、同じく国宝の宇佐神宮があり、日本一の温泉町ともいわれる別府から車で30分程度、大分空港から同じく車で約30分という好条件であった。一体に、TIの半導体工場は景観の良いところに建てられるというポリシーがあったのだ。
このころ、日出工場で働いていたマネージャーの1人に話を聞いたことがある。彼は、何だかよく分からずにTIに入社したのであるが、半導体を作る会社とは知らず、テキサスのハンバーガーか何かを作る会社であると思っていたという。入社して驚いたことがある。社内は実にオープンで、TIが実に社員を大切にする社風であることがよく分かった。横のつながりを重視するネットワーク型で、いわゆるピラミット型の人事組織とは全く違うのである。
しかして、このTI日出工場は様々な流れのなかで、残念なことにクローズしてしまった。この報を聞いたときに、筆者は大分県日出の木下藩の家老を祖先に持つ滝廉太郎の有名な歌『荒城の月』の歌詞の一番を思い出していた。それはこういうものである。
春高楼の花の宴
めぐる盃かげさして
千代の松が枝わけ出でし
むかしの光いまいずこ
ところが、TIは決して失楽園には向かっていなかった。アナログICについては、いまだ堂々の世界チャンピオンであり、世界半導体生産ランキングにおいても今日、上位にランクされているのだ。
TI日出工場の戦う魂は大分に残っている。TI大分工場の生き残りのメンバーが作った会社の日出ハイテックがその魂を引き継いでいる。
「日出ハイテックは、LSIの設計・評価・解析さらにはIC組立・検査などを行う半導体カンパニーであるが、1986年7月、大分県日出町に第三セクター方式にて設立された。筆頭株主は日出町であり、何と51%を持っていた。いわば公的カンパニーとしてスタートしたが、従業員持ち株会を設立し、2008年には第三セクターを完全に脱却した。そして2012年6月にはアイシン精機と資本提携したのだ」
こう語るのは、日出ハイテックで代表取締役の任にある岩尾出男氏である。岩尾氏は日出町出身、中央大学法学部を出て、町役場の所属となり、第三セクターの設立段階からかかわることになる。
「社員に対していつも言っているのは、お客さんが泣いて喜ぶくらいのお土産をつけよう、決して忘れられない感動を与えようということだ。当社は今も有機ELや液晶ドライバーの設計には強い。ミックスドシグナルのセンサーは、低ノイズ問題に強い。ドアハンドル用ICは国内外で多数採用されており、パワースライドドア用ICなど多くのセンサー系ICで納入実績がある。今後も確実な成長を果たしていくべく、総力をあげていく」(岩尾氏)
「むかしの光いまいずこ」どころではない。大分県日出に残るTIスピリッツは今も意気軒昂なのである。
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泉谷 渉(いずみや わたる)略歴
神奈川県横浜市出身。中央大学法学部政治学科卒業。35年以上にわたって第一線を走ってきた国内最古参の半導体記者であり、現在は産業タイムズ社 社長。著書には『自動車世界戦争』、『日・米・中IoT最終戦争』、(以上、東洋経済新報社)、『これが半導体の全貌だ』(かんき出版)、『心から感動する会社』(亜紀書房)、『君はニッポン100年企業の底力を見たか!!』(産業タイムズ社)など27冊がある。一般社団法人日本電子デバイス産業協会 理事 副会長。全国各地を講演と取材で飛びまわる毎日が続く。