東京オリンピックの前の年にあたる1963年6月15日のことである。米国のビルボード誌において、日本人として初めてのシングル週間1位を獲得した歌がある。それは坂本九が歌った『上を向いて歩こう』であり、作詞は永六輔、作曲は中村八大であった。坂本九は日本航空の御巣鷹山における大事故で惜しくもその命を失ったが、この歌は永遠と歌い継がれ語り継がれているのだ。
さて、世界すべてのエリアで新型コロナウイルスが暴れまくり、なんと感染者数は300万人に近づき、死者は約20万人という惨惨たる有様である。米国や欧州などではロックダウン(都市の完全封鎖)が相次いでおり、日本国内においても外出自粛、事業の閉鎖、人の接触8割削減などが実行されており、まさに緊急事態となっている。
世界中の人たちが閉じこもっており、医療施設では医師や看護師たちが命を懸けた戦いを続けている。
こうした暗い世相の中で、またもや『上を向いて歩こう』という歌が流れ始めた。日本だけではない。世界においてもだ。その歌詞は次のようなものである。
上を向いて歩こう。
涙がこぼれないように
思い出す 春の日
一人ぽっちの夜
上を向いて歩こう
にじんだ星を数えて
思い出す夏の日
一人ぽっちの夜
幸せは雲の上に
幸せは空の上に
「この歌を大きな声で歌おう」と呼びかけたのは演出家の宮本亜門氏である。自らも重い病気で苦しんだ宮本亜門氏は、病院の中で天井を見上げながら何回もこの歌を歌い、自分を励ましていったという。この呼びかけに応じて、女優の大竹しのぶさんをはじめとして多くの人たちがこれに賛同し、歌声は大きく広がっていったのだ。
この歌が流行した1960年代前半は、日本はまだとても貧しかった。テレビを買える人たちはまだ限られていて、『上を向いて歩こう』をラジオで聞いた人たちも多かった。
しかして、この歌に励まされ、太平洋戦争の傷跡の中から立ち上がった日本人は1964(昭和39)年、ついに悲願ともいうべき東京オリンピックを開催し、世界に向かって「ニッポンここにあり」という雄叫びを上げたのである。
このニュースを聞いていて、筆者がすぐに思ったことは東芝のトランジスタ工場のことであった。1958(昭和33)年5月15日、東芝は川崎小向に待望のトランジスタ工場を完成させた。このトランジスタ工場は、夜間には水銀ランプの壁面照明により、不夜城のごとく浮かび上がったことで東芝の新名物と言われた。月産200万個の生産規模を誇り、東洋最大規模の設備を備えていることから、多くの話題を呼んだ。当時人気絶頂であった歌手の坂本九が雑誌『平凡』の取材でこの工場を訪れている。
坂本九は、東芝トランジスタ工場の前で、この頃トランジスタガールと呼ばれた女工さんたちに心を込めて、歌ったという記述が残されている。
今は苦しくても必ず生活はよくなる、と信じ続けた女工さんたちの明るい笑顔がそこにはあったのだ。東芝はこの新工場を武器にトランジスタ国内生産シェア第1位にのし上がるが、1986(昭和61)年には、1M DRAMの開発・量産で世界トップに君臨するのだ。貧しさと苦しみの中から立ち上がった東芝が世界一を極めた瞬間であった。そして今日においても、東芝(現在はキオクシアという子会社)が作るNANDフラッシュメモリーは韓国の強敵サムスンと世界トップを争う戦いを続けている。
その東芝が、2020年4月16日、国内全拠点の休業を打ち出した。新型コロナウイルスの感染拡大を抑えるために、工場を含む国内の全拠点を4月20日~5月6日まで臨時休業にすることを決めたのだ。約7万6000人のグループ全従業員が対象となる。「なんと思い切ったことをするのか!」という声が多く上がったが、この東芝の動きを皮切りに、国内大手の休業が相次いだ。建設最大手の大林組をはじめとするゼネコンもすべての工事を中断した。
新型コロナウイルスと闘うためには、身を削り、命を削るくらいの意志が必要ということを、東芝は先頭を切って国民に示したことになる。
今は天国にいる坂本九は東芝トランジスタ工場で歌ったことを思い出し、あの素晴らしい笑顔を浮かべている、と思うのは筆者だけであろうか。
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泉谷 渉(いずみや わたる)略歴
神奈川県横浜市出身。中央大学法学部政治学科卒業。35年以上にわたって第一線を走ってきた国内最古参の半導体記者であり、現在は産業タイムズ社 社長。著書には『自動車世界戦争』、『日・米・中IoT最終戦争』、(以上、東洋経済新報社)、『これが半導体の全貌だ』(かんき出版)、『心から感動する会社』(亜紀書房)、『君はニッポン100年企業の底力を見たか!!』(産業タイムズ社)など27冊がある。一般社団法人日本電子デバイス産業協会 理事 副会長。全国各地を講演と取材で飛びまわる毎日が続く。