「ソニーの半導体の真っただ中を走ってきたが、ソニーのよいところは、何と言っても加点主義であることだった。昔、オーディオのプロと言われた人が“ソニーの場合、失敗したら闇から闇へ葬る”ということを言い、皆はそれに同調した。要は、減点主義ではないのだ。どんな大きな失敗をしても、成功すれば取り戻せる。このソニーの加点主義が、のびのびと自由に上昇していくソニーという共同体を作り上げていったのだ」
元ソニーセミコンダクタ九州(株)熊本TEC代表 露木忠晴氏
遠くを見るような目でこう語るのは、なんと42年8カ月にわたってソニー半導体部門およびディスプレー部門の前線を戦ってきた露木忠晴氏である。露木氏は、神奈川県厚木市に生まれ、県立厚木高校を経て東京理科大学理学部の夜間コースである第二部物理科に進む。1963年4月のことであった。
夜間で大学に通うかたわら、露木氏はソニー厚木工場で総務課のアルバイトとして働くことになる。ここで多くの人に可愛がられた露木氏は、64年4月にソニーの厚木工場の技術課に正社員として入社することになるのだ。
「私はソニーセミコンダクタ九州(株)(現在のソニーセミコンダクタマニュファクチャリング(株))の長崎TEC代表と熊本TEC代表、つまり工場長をやらせていただいた。ソニー国分(株)では、製造担当の常務としても働かせていただいた。さらに、ソニーと豊田自動織機の合弁会社であるエスティ・モバイルディプレイ(株)でも、代表取締役社長として活躍の舞台をいただいた。こうした経験を踏まえて言わせていただければ、ソニーには本社と工場を自由に行き来するカルチャーがある。また、異文化が入ってきても、すぐ融合する柔軟性を持っている」
露木氏は、84年には製造課長を拝命し、厚木でウエハー製造に携わる。その後、生産システムの課長、半導体製版物流システムの構築にも取り組む。91年2月には半導体事業本部のシステム部統括部長となり、92年2月にはシステムLSI事業本部の管理部統括部長の任にもあたる。まあ要するに、露木氏は何でも屋であったのだ。使い勝手のいい、都合の良い男であったのかもしれない。しかし、こうした経験を経て露木氏が分かったのは、ソニーという会社はとにかく何でもいいから、まず作ってしまうというカルチャーがあることだ。理論的裏付けなどは後からついてくる、と考える気風が強かったのだ。
露木氏は工場勤務が長かっただけに、他社にとっては機密とも言うべきソニーのクリーンルームの立ち上げのノウハウをすべて知り抜いている。知財権をブロックするための方法論もよく知っている。スーパークリーンルームを実現した最初の企業はソニーであるとの自負心も強い。何しろ、半導体工場における防塵衣を採用したのは業界でソニーが初めてであった。そしていつだって、ゴミ、コンタミとの戦いは壮絶なものであったのだ。
「気の遠くなるような長い年月にわたってソニーで仕事をしてきたが、はっきり言って社歌を歌える人間は少ない。知ってはいるが歌えない。ただ、これという時の団結力はすさまじいものがあった」(露木氏)
ソニー半導体の真っただ中を戦ってきた露木氏は、当然のことながら、現在のCMOSイメージセンサーの前身である画像センサーのCCDの製造技術にも注力してきた。今日にあって、CMOSイメージセンサーを黄金武器とするソニーの半導体は、ついに売上高が1兆円を超え、国内半導体メーカーのトップに躍り出る勢いにある。これを培ってきた哲学は「失敗を恐れるな。いつでもホームランを狙え」という、とんでもない加点主義にあったと言えるだろう。
(泉谷渉/川名喜之の共同執筆による『伝説 ソニーの半導体』第6章より抜粋。この本は12月2日付で発刊された。定価3500円+税。版元は産業タイムズ社。お問い合わせ・お申し込みはTEL.03-5835-5892(販売部)。サンプルはWebにて公開中(
https://www.sangyo-times.jp/syuppan/dtl.aspx?ID=139)。
■
泉谷 渉(いずみや わたる)略歴
神奈川県横浜市出身。中央大学法学部政治学科卒業。35年以上にわたって第一線を走ってきた国内最古参の半導体記者であり、現在は産業タイムズ社 社長。著書には『自動車世界戦争』、『日・米・中IoT最終戦争』、(以上、東洋経済新報社)、『これが半導体の全貌だ』(かんき出版)、『心から感動する会社』(亜紀書房)、『君はニッポン100年企業の底力を見たか!!』(産業タイムズ社)など27冊がある。一般社団法人日本電子デバイス産業協会 理事 副会長。全国各地を講演と取材で飛びまわる毎日が続く。