「一杯の掛けそば」という美しい話が一時期話題になったことがある。要するに、親子数人で一杯の掛けそばをごちそうになったご恩を忘れない、というものである。ところで筆者の実家は横浜の蕎麦屋であり、小さい頃から店に出て家業を手伝っていた。
高校生くらいになった時であるが、一人のみすぼらしい作業者風の男が入ってきた。まさに一杯の掛けそばを頼んだのである。「挙動不審な奴だな」という目で筆者はその男を見ていたが、やはり思ったとおりで、食べ終わると「すみません、お金持っていないんです」と言い放ったのである。
これに驚き、帳場に行って主人である父に「あの野郎は食い逃げだぜ。警察呼んで懲らしめてやる」と言ったところ、父は数秒間考えて「まあいいさ。今日のところはお代はいらないよ」と答えろと言った。
「なんて甘いことを言ってやがるんだ。どうせこんな奴はただ食いばかりしてるに違いない」と憎しみの目でその男を見送った。ところがである。数年たった頃に、大学から帰ると5人の家族連れがワーワーと騒ぎながら天ぷらそばをみな食べていた。よく見ると、そのうちの父親と思われる男は、あの無銭飲食をした男であった。「恩を忘れない」とはこのことなのだな、と深く思い至った。
それにしても、近頃の居酒屋やレストラン、さらにはラーメン屋など、どこを見ても大した会話もなく酒を飲み、ものを食べている、といった感が強い。ところがかつての蕎麦屋というものは、あらゆる情報が集まり、談論風発の気風がみなぎり、誠に活発なコミュニケーションの場であった。大工は来るわ、左官屋は来るわ、魚屋は来るわ、それこそごった煮であり、お水商売のお姉さまたちやクレゾールの匂いのするおばちゃんたちもやってきた。
筆者の母親などは「あの八百屋の娘はブスだから嫁にいけないと思っていたが、金物屋のバカ息子が手を付けてしまった」「豆腐屋の嫁さんは、2回も離婚したあばずれ女で、よくあんな奴をもらったものだ」「隣の乾物屋の次男坊は、競輪・競馬・パチンコ・麻雀に狂いまくり、とうとう勘当された」などという情報をすべて握っていたのだから恐ろしい。
筆者は店番をしながらも、ある時は文学論・芸術論を戦わす学生たち、またある時は技術論に明け暮れるエンジニアたち、そしてまたある時はかなり大胆に太ももを見せながら、キャバレーに来る客の品定めをしている厚化粧の女性たちを観察することができた。それにしても、こうした日常的な語らいの場が今なくなってきたことに寂しさを覚える。
歌丸師匠のふるさとである横浜橋商店街に
蕎麦屋の「江戸藤」はある
筆者の実家筋にあたる蕎麦屋は横浜の伊勢佐木町の裏手にある横浜橋商店街に、創業100年を超える老舗である。屋号は「江戸藤」という。主人は筆者のいとこにあたる男であるが、気風が良く、そば打ちはめっぽう、うまい。かつて、この町をふるさとにする桂歌丸師匠が「あーらよ」とか言いながら、お銚子1本にざる1枚を食べて寄席にふっ飛んでいった頃のことも良く覚えている。
自分もまた下町生まれであり、子どもの頃は蕎麦屋になると思っていたから、いわゆるサラリーマンの世界には全く憧れを持たなかった。
最近の風潮では、誰もがいい学校を出て、サラリーマンになることが幸せと思っている。そしてまた女の子たちは、やはり良い学校を出てフツーのOLになり、金のある男をゲットすることが一番と思っている。そうでない人もたまにはいるが、とにかく外れない人生が一番と思っている。
しかして、それは違うだろう。事務処理が大嫌いな男でも、ラーメンを作らせれば天下一品、というやつもいる。パソコンを打つのが苦手だが、手先の細かい機織り仕事なら大好き、という女性もいる。それぞれの人の多様性を認めることが重要なのだ。これからのニッポンには、それがとても必要なことだと思えてならない。
(企業100年計画会報より転載)
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泉谷 渉(いずみや わたる)略歴
神奈川県横浜市出身。中央大学法学部政治学科卒業。35年以上にわたって第一線を走ってきた国内最古参の半導体記者であり、現在は産業タイムズ社 社長。著書には『自動車世界戦争』、『日・米・中IoT最終戦争』、(以上、東洋経済新報社)、『これが半導体の全貌だ』(かんき出版)、『心から感動する会社』(亜紀書房)、『君はニッポン100年企業の底力を見たか!!』(産業タイムズ社)など27冊がある。一般社団法人日本電子デバイス産業協会 理事 副会長。全国各地を講演と取材で飛びまわる毎日が続く。