富山県出身の黒田善太郎という人が1905(明治38)年10月に創業した会社がコクヨである。黒田氏は、富山の企業であることを誇りに思っており、故郷の誉れになりたいと考えていた。この頃の常識としては、故郷イコール国であり、「国誉(コクヨ)」という社名を創業から12年目に商標として付けたのだ。
この頃の会社デザインを見れば朝日に桜をちりばめてあり、商標そのものは黒田善太郎の名前から取り、〇善(マルゼン)とした。これは自らの製品に絶対の責任を負うという覚悟の現れであったという。
さて、事務用品最大手として知られるコクヨはとりわけノート、レポート用紙など紙製品では圧倒的なシェアを持っている。もともとは和式の帳簿の表紙を作ることから事業を始めたが、大正年間に入って、伝票、便せん、複写簿の製造を開始したことから、日本国内にその名を知られた。戦後も順調に拡大し、1961年にコクヨというカタカナの会社名を名乗ることになり、当時としては世界No.1の紙製品生産工場となる大阪八尾工場を立ち上げた。
2000年代に入ってから海外展開はさらに加速し、06年にベトナム工場を稼働、11年には中国およびインドの会社と合弁契約、さらには株式取得などを進めた。最近では中国でNo.1のノートメーカーを傘下に加えてしまった。また、インドの有力ノートメーカーをもグループに収めてしまった。
小学校からの学生時代を通じて、コクヨのノートを使わなかった人はまずもっていないだろう。あまりにありふれた製品だけに、コクヨ自体を意識することもあまりない。しかしながら、今も売れ続けているCampusノートは、スタートが1965年であるから、もう半世紀過ぎても多くの人に使われている。このCampusで重要なことは、発表されてから10年後の1975年に無線綴りを実現したことなのだ。現在の人たちはノートが糸で綴られていたことを知らず、無線綴りが当たり前と思っているから、これぞブレークスルーの技術であったのだ。
富山大学構内にある黒田講堂は
コクヨ創業者のメモリアル
富山大学構内には、このコクヨ創業者の黒田善太郎の業績を記念して、平成元年に黒田講堂が建設されている。同大学の正門近くにあるため、多くの人たちがコクヨを生んだ富山の偉人である黒田善太郎を偲んでいるといえよう。
富山県が生み出した大人物は、このほかにも雨あられのごとくいる。「京浜工業地帯を作った男」「日本のセメント王」などと呼ばれる浅野総一郎もまた富山県氷見市の出身であり、苦労に苦労を重ねたことでよく知られる。幕末に生まれ昭和5年に死去した浅野総一郎は、浅野セメント(現在の日本セメント)を創り、磐城炭鉱、東洋汽船などの経営にもあたり、次々と成功を収めるものの、何回も何回も失敗しては生き返るという人であり、九転十起の男としても知られている。
鶴見および川崎エリアに150万坪の埋め立てを行い、これが京浜工業地帯の礎となった。また浅野総一郎が作った浅野高校は、神奈川県下で有数の進学校である。
JR鶴見線に乗れば、浅野という駅があるが、これまた浅野総一郎を記念して作られたものである。また同じく鶴見線に安善という駅があるが、これは安田財閥といわれる巨大企業群を作り上げた安田善次郎の名前を略したものである。安田善次郎もまた富山県が生み出した偉人の一人なのである。ちなみに東京大学の安田講堂は安田善次郎を記念して作られた講堂であることを知る人は意外に少ないといえよう。
先頃、筆者は富山県知事の石井隆一氏を取材する機会に恵まれたが、こうした経済界の偉人を生み出し、なおかつ事実上現状において、製造業日本一の県である富山県のスピリッツについて伺ったところ、次のような答えが返ってきた。
「とにかくまじめでコツコツと良く働く、というのが富山県民の最大の特徴なのである。しかも働くことは喜びであり、健やかなことであり、社会を支えることだという意識が富山にはみなぎっている。働く人たちを支えるインフラが形成されており、とりわけ女性たちのパワーは最高レベルといえるだろう」
ちなみに、全国一といってよいほど良く働く人の多い富山県は、生活保護を受ける人の数が全国で最下位であり、これまた当然のことだといえるだろう。
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泉谷 渉(いずみや わたる)略歴
神奈川県横浜市出身。中央大学法学部政治学科卒業。35年以上にわたって第一線を走ってきた国内最古参の半導体記者であり、現在は産業タイムズ社 社長。著書には『自動車世界戦争』、『日・米・中IoT最終戦争』、(以上、東洋経済新報社)、『これが半導体の全貌だ』(かんき出版)、『心から感動する会社』(亜紀書房)、『君はニッポン100年企業の底力を見たか!!』(産業タイムズ社)など27冊がある。一般社団法人日本電子デバイス産業協会 理事 副会長。全国各地を講演と取材で飛びまわる毎日が続く。