「日本半導体50年史」(産業タイムズ社刊)の1984年は活字が躍っている!!
1984(昭和59)年という年は強烈に覚えていることが多い。とりわけ、この年の夏は熱かった。7月28日、第23回オリンピック大会がロサンゼルスで開幕。ソ連や東欧諸国などのボイコットでモスクワ大会に続く変則五輪となったが、参加は史上最高の140カ国となった。
この五輪で超興奮したのが、柔道無差別級で山下泰裕選手が脚を痛めながらも、まさに根性の金メダルを獲得したことであった。決勝戦においてラシュワン(エジプト)の払い腰を外し横四方固めに入った時には、思わず涙がこぼれてしまった。「これが男の生きざま」と思えてならなかった。山下選手にはその後、食事会で何回かお会いしているが、いつももの静かで謙虚な方であり、あの鬼のような闘志はどこから出てくるのかと不思議でならない感じがしたのだ。
また、体操個人総合では具志堅幸司選手が優勝し、金メダルは実にトータル10個を獲得した。銀メダルは8個、銅メダルは14個で、トータルのメダル数は実に32個、ニッポンここにありとの姿勢を世界に示すに至った。あれから33年が経ったが、さあいよいよの東京オリンピック2020が期待されてならないのだ。
そして、この年は半導体産業も史上空前の活況を迎えていた。84年の世界全体の半導体需要は前年比49%増の264億ドルに達した。この爆発的ブームを支えたのは、何といってもパソコン市場の急成長であった。さらに、民生用ではVTRの出荷がうなぎ登りとなる。パソコン、ビデオという2つの牽引車に支えられ、84年は半導体産業始まって以来の爆発的ブームを謳歌したのだ。
日本国内半導体メーカー上位30社の生産額も84年度は何と前年比51%増となり、ついに3兆円を突破した。前年度に対し5割も伸びたわけであるからして、ニッポン半導体の意気は盛んであり、鼻息も荒かった。筆者はこの狂熱的なブームの中を飛び回って取材していたが、「ああ、このニッポンの強さは揺るぎなく、いつまでも続くのだろう」と脳天気に考えていたのだ。
日本勢の設備投資も急増し、84年度は国内業界全体で前年度比94%増の9457億円を投入するに至る。そして、あの東芝が83年度の970億円に続き、84年度も業界トップの1480億円を投入し、メモリー拠点の大分工場はまさに沸騰寸前であった。NECも日立も大型投資を構え、この熱風をくまなくキャッチすべく、この年の夏は筆者も休み返上でひたすら記事を書きまくった。
何しろ国内半導体の設備投資が倍増したのであるから(今日では全く考えられない!!)、半導体製造装置業界も未曽有の活況にあった。東京エレクトロンはテルメックを合併し、東証1部上場を果たした。アネルバはスパッタリング、ドライエッチングを中心に受注額で2.2倍となった。大日本スクリーン製造は国産スピンコーターで圧勝する。米国大手のアプライドマテリアルズジャパンも設立5周年を迎え、日本ビジネスを拡大しテクノロジーセンターを開設する。
ロスオリンピックと半導体の狂乱ブームに沸いていた84年の夏を思い出すたびに、石川セリ(井上陽水の奥さんだよ!)の「八月の濡れた砂」という唄の一節が胸に浮かび上がってくる。
「あたしの海を真赤に染めて夕陽が血汐を流しているの。あの夏の光と影はどこに行ってしまったの」
あああ、ニッポン半導体! 84年の夏を思い出すのだ!!
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泉谷 渉(いずみや わたる)略歴
神奈川県横浜市出身。中央大学法学部政治学科卒業。30年以上にわたって第一線を走ってきた国内最古参の半導体記者であり、現在は産業タイムズ社 社長。著書には『半導体業界ハンドブック』、『素材は国家なり』(長谷川慶太郎との共著)、『ニッポンの環境エネルギー力』(以上、東洋経済新報 社)、『これが半導体の全貌だ』(かんき出版)、『心から感動する会社』(亜紀書房)など19冊がある。一般社団法人日本電子デバイス産業協会 理事 副会長 企画委員長。全国各地を講演と取材で飛びまわる毎日が続く。