(株)チノーは、1936年の設立以来、「計測・制御・監視」の領域で事業を展開し、あらゆる産業分野に関わり、その発展に貢献してきた。特に「温度のチノー」として高い技術力を誇り、近年では赤外線計測分野、燃料電池評価試験分野で絶大な評価を獲得してきた。この10年間にわたり代表取締役社長として「温度のチノー」を陣頭指揮してきた苅谷嵩夫氏に話を伺った。
―― 貴社はこれからもセンサーに注力しますね。
苅谷 山形事業所では、人体検知センサーをはじめ、ガスセンサー、水素センサー、MEMS技術による赤外線センサーなど多くを手がけていく。
産総研と共同開発したチノーの標準温度センサーは久喜事業所から世界35カ国の国家計量機関に出荷しており、事実上のデファクトスタンダードとなっている。すなわち、温度という分野では一番基本の世界標準センサーなのだ。アメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、イタリア、スペイン、中国、韓国、タイなどに行っても、標準温度センサーといえばチノーがトップブランドであり、標準に携わる人たちには「チノーのR800」で通っている。関西エリアでは雨どいのことをタキロンと呼んでおり、社名と一致するスタンダード製品を持っているわけで、チノーもそれに似ているといえよう。
―― 社長10年間の中で一番心に残ることは。
苅谷 リーマンショックで売り上げの半分が吹っ飛んだが、ただの一人もリストラしなかったことだ。もっともチノーは会社を創立して80年間、一度もリストラをしていない。2011年に入社した人の在職率は100%で、この10年間の離職率はたったの3.1%。人が辞めない会社、人を辞めさせない会社だ。
―― どのような戦法でリーマンショックを乗り切ったのですか。
苅谷 注文が来ないのであるから、工場はほとんど動かない状態となる。通常ならば、雇用調整金をもらって自宅待機または希望退職を募るところだ。ところが私は、経営コンサルタントの意見とは逆張りの戦法に出た。「今売れなくてもいい。売れ筋商品、定番商品を精査して計画的に作り続けろ。ある範囲までの在庫生産を許す」というものであった。教科書的には禁じ手だから、社内外ともにこれには驚いた。作り上げたものは各営業所の机の上にどっさり置かせた。これを売らなければ会社は存続しないという意味だった。そこから、それまでは技術営業をベースとしていた、わが社の営業員の意識が大きく変わった。
―― リーマンショック後の10年に新たな方針を出されますね。
苅谷 「リバイブ2010」という方針を打ち出した。これは第1に、売り上げがほぼ半分近くの113億円まで落ちたが、このままでは終わらない、必ず復活する、当面は150億円に戻すと宣言した。第2にはとにかく営業は1カ月に1人100社は回れという号令。第3には社長である私も先頭に立ってトップセールスをする、ということで、内外の大手の顧客回りに明け暮れた。
―― 16年以降の将来ビジョンをお聞かせ下さい。
苅谷 早期に過去最高の売り上げ230億円を目指すということが第1目標だ。そして、現在まだ売り上げの20%にとどまっている海外比率を30%に引き上げることだ。第2には「温度のチノー」の技術を横展開すること。IoT時代に入ってメディカル、自動車、農業など将来を嘱望される新分野はいくらでもある。とりわけ重視しているのは水素エネルギーで、何とチノーは30年間もこの分野の装置を開発してきた。燃料電池評価装置は世界トップシェアだ。今後は水素エネルギーステーションや水素そのものを作るプラントが多く出てくる。ここにチノーのセンサー技術が活かされていく。
―― 「温度のチノー」は永遠に不滅ですね。
苅谷 世界における工業計測の60%は温度だ。チノーはマイナス270℃付近の極低温から+3000℃以上の超高温を測るセンサー技術を持ち、これが最大の財産であるといえよう。このマザーツールを武器に、一介の町工場から世界標準を持つカンパニーに飛躍することができた。私は日ごろ若手社員にも多く接する機会があるが、彼らから「チノーはいまこそ原点回帰」という言葉を聞くことが多く、とても嬉しくなる。チノーの明日を生きる若者たちが、「温度のチノー」をさらに極めてみせるという高い志を持つ限り、世界の工業に貢献する私たちの使命は決して終わることはない。
(聞き手・特別編集委員 泉谷渉)
(本紙2016年12月15日号1面 掲載)