野球中継を見ながらひとりビール!!
(筆者がよく通う横浜・鶴見のレトロ居酒屋)
仕事で疲れた折に、行きつけの居酒屋でくいーと飲み込むビールのうまさは格別なものがある。大好きだった男と最後の別れをして、バーでひとり飲み干すビールの苦さはお分かりかしら、と知人の女性に言われたことがある。たかが草野球の試合で13対0という圧勝、鶴見の居酒屋でわあわあとビールで乾杯し、「ああ、もうどうなってもいい」という訳の分からない喜びが込み上げてくる時もあった。
さようまことに、ビールという飲み物は人生の喜怒哀楽をすべて心の中に流し込んでしまうというところがあるのだ。しかして、筆者はひとり深夜に横浜の自宅でランドマークタワーを見上げながら、ビールを飲みくつろいでいる時に、ある人の声が心をよぎることがある。それは、かなり若い頃にイベント産業の取材をしていた折に、アサヒビールの広報部長である泉谷直木さん(何と筆者と同じ姓なんですう!)が、しみじみと言われた言葉である。
「なるほど確かに我が社のアサヒ・スーパードライは空前の大ヒットを続けている。辛口でちょっとアルコール度数高めというテイストがこんなに受けるとは、社員たち自身も本当のところ驚いているのではないか。ただ、これだけは申し上げておきたい。このウルトラ商品、スーパードライをもってしても、なかなか打ち破れない強敵がいるのだ」
それは何ですかと伺ったところ、泉谷部長(この方は何と後にアサヒビールの代表取締役社長に大出世する)は苦々しげに低い声でつぶやいたのだ。
「それはあなたのお父さんやおじいさんが毎日のように飲んでいるものだ。そう、あのキリンビール(クラシックラガーのこと)だ。ひたすらに苦味だけがあるあのビールは、テイストは何の変哲もないと思われている。しかして、あのビールを飲み続ければ必ずクセになる。アサヒは、何回もキリンを打ち破ろうとして様々なビールを開発し、トライアルを続けてきた。いったんはシェアを上げてキリンに迫っても、数年のうちに跳ね返されてしまう。キリンビールの本当の恐ろしさはあの味にあるのだ」
泉谷部長は何と冷静な人だろうとの感想であった。そこで、自分のことを思い返してみたら、確かにスーパードライの斬新な味には飛びついた。何てうまいビールだろう、と思った。ところが、いつのまにか昔のキリンビールに回帰してしまった自分がいたのだ。
「スーパードライは爆発的に売れ続けているが、あのキリンラガーを駆逐しない限り本当の勝利は来ない。ただ、1つだけチャンスはある。このスーパードライの大ヒットに刺激されて、キリンが動揺し、ビールの味を変えてしまうことだ。一番メーンのあのクラシックラガービールの味に手をつけてしまうことだ。それをやってくれたら、我が社は勝つ!」
この時の泉谷部長のギラギラとした眼を筆者は決して忘れることができない。そして、キリンビールはやってはいけないことをやってしまった。メーンのクラシックラガーを何と生ビールに切り替えて大幅に味を変えてしまったのである。これを契機に筆者はキリンビールを飲まなくなった。筆者ばかりではない。多くの人たちが生ビールに変わってしまったクラシックラガーの味を嘆き、みな離れていったのだ。それからアサヒビールの独走が始まり、現在においてもスーパードライは圧倒的な強さを見せつけている。
世の中には、変えてはいけないものがあるのだ。何ゆえにその製品が多くの人たちの支持を集めているのかも調べずに、多情な芸妓が次々と男を変えていくように、ひたすら新製品に走っていく企業の何と多いことか。
日本の電機業界を見渡してみても、「変えない」ことが会社を救った例はいくらでもあるのだ。史上最大の損失を出し、アナリストたちからバカ呼ばわりされた日立製作所が「本業復帰」を打ち出し、得意とする社会インフラに特化した結果としてV字回復したことを見ても「本来の味を変えない」ことの大切さはよく分かるだろう。三菱電機もまた本来の姿をよく見つめ直し、自分たちが決して負けない伝統の技に回帰し見事な業績を続けている。「変えない」ことは、意外と勇気のいることであるが、それが奏功するケースもまま多いのだ。
さて、その後の日本のビール状況はこれまたとても面白い。独走状態に入ったアサヒに対し、キリンが打った手は「一番搾り」という水のようにサラッとしたビールの開発と市場投入であったが、これは大勢を動かすことにはならなかった。そして、スーパードライを脅かす存在となってきたのが、何とサントリーのプレミアムモルツであった。これは、スーパードライの「辛口」に対し、「きりりとした苦み」で勝負し、かなりのシェアを奪っていった。
かつてビールの帝王であったキリンはそのまま後退していったのか。いやいや、とんでもない。低プライスの発泡酒という世界を切り開き、この分野では事実上世界トップにのし上がっていった。
それにしても、「変化=チェンジ」を前面に打ち出したオバマ大統領は、もうすぐ任期を終えるのだが、それほど大きく何かを変えたとはとても思えない。「何かを変えてもらいたい」人たちは、あのクレイジートランプを推しているが、今や女性初の米国大統領を狙うクリントンに押されて劣勢だ。政治家たちは誰もが「この状況を変えてみせる」と大見得を切るが、「変えてはいけないもの」も、この世にはあるのだ。
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泉谷 渉(いずみや わたる)略歴
神奈川県横浜市出身。中央大学法学部政治学科卒業。30年以上にわたって第一線を走ってきた国内最古参の半導体記者であり、現在は産業タイムズ社 社長。著書には『半導体業界ハンドブック』、『素材は国家なり』(長谷川慶太郎との共著)、『ニッポンの環境エネルギー力』(以上、東洋経済新報 社)、『これが半導体の全貌だ』(かんき出版)、『心から感動する会社』(亜紀書房)など19冊がある。一般社団法人日本電子デバイス産業協会 理事 副会長 企画委員長。全国各地を講演と取材で飛びまわる毎日が続く。