1979年7月1日、世界の若者のファッション文化を根底から変えた画期的な商品「ウォークマン」が登場する。これに先立つ2月、東京・品川のソニー会長室では、盛田昭夫会長とソニー商事の社長、営業本部長、テープレコーダー営業部長が会議を重ね、「スピーカーもなく、録音のできない機械では売れない」との反対論が渦巻いていた。
しかし、井深大ソニー名誉会長の決断で、ウォークマンは世に出た。だが、立ち上がりはほとんど売れず、事前の記者発表にも記者たちは冷ややかで、読売、産経がわずかに12行の記事を載せただけで、他紙はほとんど無視した。
ところが、8月末にはほとんどの店頭で売り切れとなり、ウォークマンはローラースケート、デジタル時計と並ぶ若者の新三種の神器と呼ばれるほどの、爆発的なヒットを見せた。その後18年間を経て、ウォークマンは世界各国で1億6000万台を売り切ることになる。
今となれば恥ずかしいことであるが、このソニーウォークマン発表の1979年、筆者は新聞記者になって3年目の夏を迎えていた。もちろんソニーから「ウォークマン、ついに登場」というニュースリリースは届いていたが、他のマスコミと同様に筆者はこの発表の持つ価値が分からなかった。ニュースリリースを全く記事にしなかった。「録音機能がなく、しかも高額であり、スピーカーもついてないコンパクトカセットの類が売れるわけがない」との判断が働いたからだ。
そうした世間常識を常に覆していくのがソニーという会社なのだと、今にして思う。歩きながら聴けるステレオであるウォークマンを身につけて、多くの若者たちが町に飛び出して行った。音楽が目の前の風景を変えてくれるという現象に驚き、そのことに夢中になっていく。今日にあってはスマートフォンで楽々そうしたことを実現することができるわけだが、1979年当時にあっては、それはまさに革命的なことであったのだ。
このウォークマンを出す前に、持ち運びのできるカセットテープレコーダーはかなり普及していた。いわゆるラジカセであり、この先鞭をつけていったのもソニーであったのだ。ラジカセの発想をさらに進化させ、歩きながら楽しめるラジカセに持って行ったソニーの発想は世界を驚かせた。
そういえば、指揮者のヘルベルト・フォン・カラヤンがベルリンフィルを率いて来日した時に、「ソニーの最新鋭のミニ音楽プレーヤーを一刻も早く見たい」と発言したことには驚かされた。あの帝王といわれた大指揮者のカラヤンまでもが、ソニーの虜になっていたのだ。
そしてまた、一方でソニーは当時一大アイドルとして活躍していた山口百恵の名曲『ひと夏の経験』を使ったコマーシャルを打ち、これが大当たりした。かの百恵ちゃんが「あなたに女の子の一番大切なものをあげるわ。きれいな涙色に輝く大切なものをあげるわ」という歌詞の曲を絶唱する。これを聴きながらバッハやベートーベンなどの大音楽家たちが、「百恵ちゃん!!」と絶叫するコマーシャルはまことに秀逸であった。
筆者はこの頃、テレビを見ていてこのコマーシャルに接し「ソニーは何とすばらしい会社なのか」という思いで胸が一杯になった。百恵とバッハをフーガの技法のように対比させ、落差の美学を応用したCMのアイデアは、そのままソニーの革命性を表しているかのようであった。
それはさておき、「ウォークマン」はソニーをどでかい世界ステージに押し上げる役割を果たした。ところが、である。このウォークマンの発展形という点でソニーは後に大きく遅れを取ることになるのだ。
ウォークマンというアイテムをアナログからデジタルに変え、カセット、CDを媒体とするのではなく、ネット配信による携帯音楽プレーヤーにすることを考えるカンパニーが登場する。その革命商品こそiPodであり、これで爆発的当たりを取ったアップルは、iPhone、iPadの道を突き進み、世界のITを牛耳っていくのだ。スティーブ・ジョブズやスティーブ・ウォズニアックなどがアップルを立ち上げたのは、ソニーウォークマン登場の3年前、1976年4月1日のことであった。
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泉谷 渉(いずみや わたる)略歴
神奈川県横浜市出身。中央大学法学部政治学科卒業。30年以上にわたって第一線を走ってきた国内最古参の半導体記者であり、現在は産業タイムズ社 社長。著書には『半導体業界ハンドブック』、『素材は国家なり』(長谷川慶太郎との共著)、『ニッポンの環境エネルギー力』(以上、東洋経済新報 社)、『これが半導体の全貌だ』(かんき出版)、『心から感動する会社』(亜紀書房)など19冊がある。一般社団法人日本電子デバイス産業協会 理事 副会長 企画委員長。全国各地を講演と取材で飛びまわる毎日が続く。