電子デバイス産業新聞(旧半導体産業新聞)
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第144回

「現代に欠けているのは覚悟だ。命を懸けてでもモノを作るという覚悟だ!!」


~映画監督/名カメラマンの木村大作氏は76歳にして次の作品づくりに挑む~

2015/8/7

映画監督/名カメラマンの木村大作氏
映画監督/名カメラマンの木村大作氏
 ひょんなことから映画監督であり、名カメラマンとしても知られる木村大作氏と講演をご一緒する機会に恵まれた。最近の映画では「劒岳 点の記」を大ヒットさせ、雪の中で3年間撮り続けたという「八甲田山」(600万人動員)の撮影を務めたあの伝説の人である。高倉健主演の映画を多く撮っていることでも知られ、「鉄道員」(ぽっぽや)はあらゆる映画賞を総なめにしているが、これまた木村氏のカメラマンとしての天分を大いに発揮した作品であった。

 ふらっとした感じで会場に現れた木村氏は、筆者の講演の後半を聞いておられたが、自らの講演の冒頭に「今の話は実に面白かった。私は電機業界のことはほとんど分からないが、参考になった」とほめていただいた。ありがたいことだ、との思いで胸がいっぱいになった。

 驚くべきことは、マイクをまったくお使いにならず大音量の肉声ですべて話されたのだ。とにかく、大声を上げることは健康によろしい、と主張され2000人までの会場なら一切マイクは使わない、と言っておられた。朝食はまったく食べず珈琲1杯。40年間にわたりすべて外食、それもタバコの吸える食堂にしか行かないとのことであった。しかも病院には行かない、診断を受けたことがないという大丈夫であり、ストレスを溜めないことが最高の健康法と吠えておられたのだ。

 「18歳で蔵前工業高校を出て、11社の入社試験を受けたが、すべて落ちた。花王石鹸、東武電鉄、さらには新聞社なども受けたが、まるでダメだった。映画会社の東宝がボイラーマンに1人欠員が出たというので受けに行ったが、成績はビリから2番目。ただ声がでかくて元気そうという理由で、信じがたいことに受かってしまった。昭和33年、長島の巨人入団の年であった。入社したら、とにかくもう忙しそうであり、何と1カ月目に黒澤明のところに回され、撮影助手になってしまった」(木村氏)

 昭和33年といえば、日本映画界の頂点となる年であった。観客動員は最高の12億人を記録し、どの映画会社も年間100本は作ったという時代である。木村氏の初仕事は黒澤明の「隠し砦の三悪人」であったが、撮影は想像を超えた厳しさであり、カメラコードを持ち、カメラスイッチを押し、そこら中を駆けずり回る日々であった。

 「この青春の日々、最大の宝物は世界トップの黒澤明のやり方をこの眼で見ていたことだ。撮影の条件が整うまでは絶対にカメラを回さない。役者の演技、小道具1つ、天候にいたるまで一切の妥協がなかった。命を懸けて作品を作る、とはこういうことかと、体すべてに叩き込まれた。今でもよく思うのは、この場面、黒澤明だったらどう考えるか、どう動くかということだ」(木村氏)

 木村氏はその後、「用心棒」「椿三十郎」「天国と地獄」など黒澤の代表作に次々と使われ、いわゆる黒澤組の大切なスタッフとなっていく。木村氏は当時40歳を過ぎなければまずなれないというカメラマンに33歳で抜擢されるのだ。しかして、黒澤明は木村氏のことを本名ではまったく呼ばず、「デコスケ」「抜け作」などと呼びつけていたが、ある日「大ちゃん、こっちに来てくれ」といわれた。初めて黒澤明に本名を呼ばれたときに、木村氏は呆然と立ち続けて号泣したのだ。親が死んでも泣かなかった木村氏の生涯初めての号泣であったのだ。やっと、やっと認められたのだとの思いがそこにはあった。

 「劒岳 点の記」は、名カメラマンであった木村氏が初めて監督(もちろんカメラも担当)した作品であったが、3000mの山岳に登り、すさまじい撮影の日々を過ごす。筆者はこれを見たが、いやこれぞ本物との思いがあり、その裏話を聞いて、さらに驚かされた。
 「すべて実写で貫いた。CGは一切使わない。インチキの下からの撮影も使わない。役者と同じ苛酷な状況の中でカメラを構え、役者の命がけの演技を撮る。浅野忠信も香川照之も根性の塊のような男で、一歩踏みはずせば転落し命がないという状況の中で、懸命な芝居をしてくれた。もちろんカメラを構える私も同じ状況であった。しかして、その迫力は必ず映像に表れるのだ。本物はうそをつかない。いや、本物でなければ決して伝わらない」(木村氏)

 木村氏の講演を聞いていた人たちの多くは電子デバイス業界の人であったが、この話に深くうなずいていた。命を懸けたモノづくり、それこそがニッポンを救う道なのだと、講演後に会衆の1人がつぶやいていたが、映画の世界も電子デバイスの世界も絶対品質の追求が重要であり、最後に良いもの、つまり本物しか残らないということは共通項なのだ。

 さて、76歳にして次の作品づくりに挑む木村氏は、次のコメントを残して、ひょうひょうと会場を去っていった。
 「次は時代劇を撮ろうと思っている。チャンチャンバラバラのにせもの時代劇(つまり予定調和)とは違う世界をお見せしたい。コピーばかりが蔓延するこの時代にあって、本物の映像とはこれだという作品を作りたい。昔の武士の世界は厳しかった。1つ間違えれば命を落とす。物事を始めるときには常に切腹を頭の中に描く。現代に欠けているのは、この武士の覚悟だ。命を懸けてでも、モノを作ってみせるという覚悟だ」


泉谷 渉(いずみや わたる)略歴
神奈川県横浜市出身。中央大学法学部政治学科卒業。30年以上にわたって第一線を走ってきた国内最古参の半導体記者であり、現在は産業タイムズ社 社長。著書には『半導体業界ハンドブック』、『素材は国家なり』(長谷川慶太郎との共著)、『ニッポンの環境エネルギー力』(以上、東洋経済新報 社)、『これが半導体の全貌だ』(かんき出版)、『心から感動する会社』(亜紀書房)など19冊がある。一般社団法人日本電子デバイス産業協会 理事 副会長 企画委員長。全国各地を講演と取材で飛びまわる毎日が続く。
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