今日にあってソニーは、人間の眼にあたるCMOSイメージセンサーの世界チャンピオンとなっている。しかし、そのベースは伝説の人、岩間和夫氏(ソニーの第4代社長)が心血を注ぎ立ち上げたCCDなのである。
1979年2月20日にソニーに入社試験なしで入社したという快男児、萩原良昭氏はその岩間和夫氏(当時ソニーアメリカの社長)に会っている。萩原氏がISSCC1974の学会でCCDの研究論文を発表し、これに驚いた岩間氏はお忍びでロサンゼルスのリトル・トーキョーにあるホテルで萩原氏に鉄板焼きをごちそうしたのである。
萩原氏は、その時の岩間氏の言葉を鮮明に覚えているという。それは次のようなものだ。
「ソニーにはエンジニアはたくさんいる。しかし科学者がいない。君には期待する」。
さて、萩原良昭氏(現職は崇城大学特任教授)は、1948年7月4日生まれ、出生地は京都市下京区、母親は京都の地元出身、父親は鹿児島県出身であった。名門である洛星中高等学校に進むが、なんとその校長であったフランソワー・アラール神父の紹介により、米国のリバーサイド市立高校に2年生、3年生と留学することになる。そして米国のカリフォルニア工科大学で学ぶことになるのである。
「1971年の夏と1973年の夏に一時日本に帰国することになり、ソニー厚木工場で2度、実習生として3カ月間、品質保証部でソニーのバイポーラ半導体技術を学んだ。これは実戦的に役に立った。後に専務取締役となった高橋昌宏氏がバイポーラICの設計企画課長として、ソニー厚木工場の品質保証部の大部屋にいた」(萩原氏)
萩原氏は博士論文の必須事項はすべて終わらせており、何と学生のまま例外的にソニーに入社してしまう。学生の身分でソニーの正社員になったのは、第5代社長の大賀典雄氏と萩原氏くらいだという。
ソニーの快男児、萩原良昭氏(現在は崇城大学特任教授)
「子供のころはマンガが大好きだった。鉄腕アトムのマンガにあこがれて、自分も科学者になりたいと志を持った。ロボットを作ってみたいと思った。今もその夢に挑戦している」(萩原氏)
萩原氏は、中央研究所でCCDの設計に携わり、後にはCOMSイメージセンサーの受光部などの開発、そしてソニーの黄金武器であるプレイステーションの半導体などまっしぐらにソニーの先端技術の世界を突き進んでいく。半導体技術戦略室長にも就任し、役員会に出るというほどの活躍を見せたのだ。また、ソニーの国分工場、熊本工場などでは、人材教育という面でも貢献していく。
「ソニーのAIBOロボットとリアルタイムを重要視するプレイステーションのゲーム機用半導体の設計と開発、生産歩留まり向上などを担当し、60歳になりソニーを2008年7月で退職する」(萩原氏)。
萩原氏はその後、崇城大学の情報学部の教授となり、17年4月からは半導体産業人教育委員長を歴任し、現在は理事長付きの特任教授として活躍している。そして、これからも子供のころの夢を追い続けるとして次のように語るのだ。
「原子力で動くのではなく、太陽光を直接電気エネルギー源として使う鉄腕アトム型ロボットの実現を目指している。超高感度の半導体受光素子を1975年に発明して、50年近くになるが、これからはエネルギー問題解決のために大型太陽光発電所の建設を夢見ている。ライバルは中国製の太陽光パネルだ。この場合、ダブル接合型太陽電池の特許JPA2020-131313を自分が保有していることが武器になる」
自然にやさしい、地球にやさしい、SDGsに貢献する、賢い電子の眼を持つ自己発電型AI搭載ロボットを作りたいという萩原氏の夢のロードはまだまだ続くのである。
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泉谷 渉(いずみや わたる)略歴
神奈川県横浜市出身。中央大学法学部政治学科卒業。35年以上にわたって第一線を走ってきた国内最古参の半導体記者であり、現在は産業タイムズ社 取締役 会長。著書には『自動車世界戦争』、『日・米・中IoT最終戦争』(以上、東洋経済新報社)、『伝説 ソニーの半導体』、『日本半導体産業 激動の21年史 2000年~2021年』、『君はニッポン100年企業の底力を見たか!!』(産業タイムズ社)など27冊がある。一般社団法人日本電子デバイス産業協会 理事 副会長。全国各地を講演と取材で飛びまわる毎日が続く。