電子デバイス産業新聞(旧半導体産業新聞)
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第94回

温故知新~日本のプリント配線板業界を振り返る


2015/5/1

 現在、スマートフォン(スマホ)などの高性能なモバイル端末機器には高密度で薄型のプリント配線板が数多く搭載されている。メーン基板はリジッド基板1枚とサブ基板の3枚前後に、その他として各種モジュール用途のFPCが十数点という組み合わせが多い。これらの基板上には0402サイズの部品が600点以上、その他半導体・MEMS・センサーなどの主要デバイスを含めると1200点もの電子デバイスが搭載されている。
 プリント配線板は、これらの電子部品や半導体を相互に電気的に接続し、システム回路として機能させる重要なコンポーネントである。人間で言えば、身体中に張り巡らされた、まさしく神経回路のようなものだ。

 こうした花形エレクトロニクス製品のマス市場の業界で活躍する日系プリント配線板メーカーの存在が、日増しに少なくなっているのは寂しいことだ。
 しかし、かつては国内配線板メーカーが一時代を形成し、市場を牽引した時があった。当社では1980年代半ばから、国内の配線板メーカーにスポットを当て、その動静をレポートする『プリント回路メーカー総覧』を出版してきた。往時を訪ねることで、新しい発見や将来への事業ヒントが見えてくることもある。

1940年頃~黎明期

 プリント配線板が最初に実用化されたのは、軍事用途であったとされる。これは砲弾の近接信管部分に採用されていたそうで、プリント配線板の技術動向に詳しい高木清氏(高木技術士事務所)によれば、当時はセラミック基板が採用されたという。この近接信管をつけた砲弾は、米軍が開発したものとされ、目標物の近くで起爆させることで相手側により確実に、大きなダメージを与えることができたという。

 昔は抵抗器やキャパシタ、真空管などの電気部品を手作業で銅線などを使い接続していたため、時間もかかり、工程数が多かった。ケアレスミスによる接続の不具合も多く、信頼性が低かった。このため、絶縁基板上に配線パターンを形成することで信頼性や製造スピードを飛躍的に向上することができ、電気製品や電子機器の小型化と高性能化の実現に貢献したとみられる。これがプリント配線板の初期のモデルとされている。
 その後、基本技術や材料は確立されてきたが、大きな市場となって立ち上がるのには、まだしばらく時間を要した。1960年以降、テレビやカセットレコーダー、録画機などのAV機器などには紙フェノール/エポキシ系樹脂材料が中心に採用され、徐々にエレクトロニクス製品の種類や物量増に支えられて片面板や両面板の市場が立ち上がっていく。


1985年頃~成長期

 日本電子回路工業会(JPCA)によれば、1980年ごろのプリント配線板の市場規模は2300億円を超えたあたりで、その5年後には6100億円と3倍近い成長率を誇り、まさしく花形産業の一角を占めていた。また80年は民生と産業機器向けがほぼ半分ずつで市場を二分していたが、85年にかけては産業機器向けの基板市場が急成長し、6割を占めるようになり民生市場を逆転している。
 1985年ごろの基板業界のトップメーカーは日本CMKであった。片面や両面板主体に年間400億円弱を売り上げており、世界最大の基板メーカーともいえた。
 何といっても、有力セットメーカーが配線板を重要部品と位置づけ、内製化に力を入れている時代であった。

 日本電気は1985年ごろ、年間の基板売上高として300億円前後を売り上げていた。当時は半導体No.1の実績を背景にプリント配線板事業でも大きなシェアを持っていた。1972年に基板の主要拠点となる富山日本電気を設立して、自社の汎用コンピューターなどに搭載する拠点として運営を始めた。自社製品に組み込む重要部品として強化対象となっていたという。富士通も85年当時の売上高は300億円弱で、日本電気と並ぶ基板の大手サプライヤーであった。

 80年ごろの産業用途では、依然、両面板が主流で産業用途の75%を占有。多層板は25%にも満たなかったのだ。それが5年後には多層板が35%を占めるまでに拡大している。このころの多層板を支えていたのは、ワークステーションやメーンフレームなどの高性能なコンピューターであった。

1990年頃~大手セットメーカーの投資ラッシュ

 90年代に入ると、様々なエレクトロニクス製品が登場し、配線板の需要を大きく喚起した。カメラ一体型ビデオ、大型カラーTV、BSチューナー、移動体通信などの家電系のヒットに加えて、ノート/ラップトップ型パソコン、OA周辺機器の普及拡大と相まって、薄物多層板の本格需要の到来となった。6~8層板へのシフトが一気に進んだ。
 この年は、新日鐵化学グループの旧日本エレクトロニクスが発足するなど新規参入や日立化成グループの配線板メーカーの事業再編もあり、業界は拡大していった。

 そして、大手セットメーカーによる配線板専用工場の建設ラッシュに沸くことになる。富士通、ソニー、カシオ計算機、日本電気といった国内有数のセットメーカーが自社製品に搭載する配線板の内製化に一気に踏み込んだ。特に富士通は、鳥取県米子市に大型コンピューター用の超高多層セラミック基板の量産拠点として300億円近い金額を投じると発表した。
 さらには、1953年に配線板事業をスタートさせていた日本電気も、スーパーコンピューターに搭載する20~30層クラスの超高多層板の量産拠点を、秋田日本電気内に250億円をかけて建設すると発表した。
 ソニーは、「パスポートサイズ」として超軽量小型のハンディーカムを引っさげて市場を席巻した勢いを借りて、ソニー根上(石川県)を設立した。100億円を投じて超薄型多層板の一大量産拠点として立ち上げを決めた。

 これらセットメーカーは、自社の売れ筋セット商品に搭載する配線板の拠点としての供給を担わせるとともに、他者への供給という外販戦略の二正面作戦を展開した。
 しかし、自明の理ではあるが、そのアプリケーションが不動のものではなく、常にヒットするわけではない。

 相次いで新工場を建設した90年のわずか2年後、市況は暗転する。92年以降から本格化したエレクトロニクス不況は、国内セットメーカーの基板事業に決定的なダメージを与えることになる。

 日本電気や富士通は超高多層基板の専用工場を立ち上げ、あとは「スイッチを入れるだけ」(業界関係者)の状態にあったとされるが、これらは基板工場として日の目を見ることは無かったのだ。まさしく関係者にとっては痛恨の極みとなったであろう。これは完全にマーケットの読み誤りと言える。
 すでに忍び寄っていた汎用コンピューターの「ダウンサイジング」の方向性を読み切れなかったのだ。いつまでも大型コンピューターの時代が続くと見誤り、セラミック基板などの超高多層基板の一大供給拠点とする構想は完全に崩れた。そして、その後のパソコンの時代に日本のセットメーカーが主導権を取れなかったことが、日本の基板業界において負のスパイラル経営に追い込まれていく要因になったことは間違いないであろう。

 日本電気は関連子会社の山梨アビオニクスに樹脂の超高多層基板の生産を移管するなどリストラのスピードを上げていった。東芝も多層板の拠点であった三重工場が95年春に閉鎖に追い込まれている。

1995年~新市場の時代

 96年に入ると、高密度多層板の時代が本格的に幕を開ける。専業メーカーであった日本CMKや大昌電子などの全社売上高に占める割合が半分以上となり、それまでこれらの専業メーカーの躍進を支えてきた片面板や両面板の時代から高密度多層板の時代にシフトしたのだ。従来の片面板や両面板の需要は一気に海外に移っていった。

 さらには、ここに来て大きな動きが出てきた。それまでパソコンのMPUにはセラミックパッケージ基板が採用されていたが、インテルなどが主導して樹脂パッケージ基板(プリント配線板)を採用する動きが本格化してきたのだ。BTレジンなどの樹脂を採用することで低誘電率化や電気抵抗の低抵抗化が期待されるとして、高速化してきたMPUには最適となった。また低コスト化への道筋も見えてきたことで、一気にプラスチックBGAの時代へと突入する。

 この時、新光電気工業やイビデンなどは相次いで新工場の建設に踏み切り、そして中堅のイースタンなどが本格的にパッケージ基板市場に名乗りを上げてきた時代であった。それまで同分野で主役を張っていたセラミックパッケージ基板の巨人であった京セラや日本特殊陶業などは、同市場からの退出を余儀なくされることになる。

2000年~BU基板の時代に、グローバル競争激化

 2000年前後になると携帯電話(ガラケー)の市場が急拡大してきた。さらにはノートパソコン、デジタルスチルカメラ(DSC)、カメラ型VTRなどの国内セットメーカーが得意としていた分野の製品が拡大した。軽薄短小化の流れに乗り、メーン基板の高密度化やフレキシブルプリント配線板(FPC)市場が一気に広まりを見せた。
 日本のお家芸とも言われたビルドアップ基板を相次いで国内勢が発表、世界を驚かせた。もともとビルドアップ基板は日本IBMが開発したものだが、これが国内基板メーカーの開発意欲を刺激した。デジタル家電の高機能で小型軽量化を両立するために、その重要なカギを握っていたのが、このメーン基板の小型・高密度化技術であった。その解が、このビルドアップ基板であったのだ。

 さらには、円高の進展もあり、国内セットメーカーの海外移転に引きずられるようにメイコーや日本CMK、フジクラ、日本メクトロンなどは相次いで中国やタイに製造拠点を構えることになる。また、この頃から台湾や韓国の基板メーカーも実力をつけ、海外に進出しても、これらの新興国との価格競争に直面する。

2005年~スマホの登場とFPCの時代

 さらには2007年に現在のセットの覇者とも言えるスマホの初号機、アップルのiPhoneが産声を上げた。当時はノキアが携帯電話市場でシェア4割に迫るなど、史上最強の座に君臨していたが、その後のノキアの凋落を一体誰が予想しえたであろうか。そして、そのiPhoneがエレクトロニクスの世界と世の中を一変させていくことに一体誰が気づいていただろうか。
 このスマホの登場で世界は劇的に変化した。年間数億個も売れるセットを大量にさばくため、あのフォックスコンのような大規模EMS企業が展開する、度肝を抜く大量生産の時代へと移行。日本の基板業界は大量の供給基地の拠点作りで敗走し、スマホにおける基板市場においては、完全に台湾や韓国勢に主導権を奪われていくことになる。

 2000年ごろを境にFPCの本格成長が始まる。セットでいえば「写メール」と呼ばれる流行語までヒットさせたカメラ付携帯電話を筆頭に、DSCの大躍進、HDD/DVDなどのパソコン向けや高機能録画機の市場形成でFPCがその恩恵を受けた。数多くのデジタル家電の登場により、また高性能化ならびに短納期化需要に応えるためには、材料コストを無視してでも、設計自由が高くて使い勝手の良いFPCに皆(セット開発企業)がなびいた。
 また、このころ液晶テレビやPDP(プラズマTV)なども隆盛を極め、ここには各種のドライバーICを実装する手法としてチップオンフィルム(COF)やTABといったテープサブストレートが登場。これもFPC技術を使うことから、同市場は劇的な成長を遂げるとまで言われていた時代であった。2004年度前後には、それまでトップに君臨していたイビデンを日本メクトロンが売上高でも凌駕して、基板業界の頂点を極めた瞬間であった。

 しかし、その流れはスマホが登場してからも変わらず、高機能なスマホにはどんどん高精細のFPCが大量に採用されている。1台あたり十数点も搭載されており、今後新たな機能も次々とスマホが取り込む可能性があり、当面はFPCにとっては追い風が吹くとみている。

2015年以降~ポスト・スマホ?

 ポスト・スマホと言われているが、当面はスマホが依然、セットの覇者として君臨するだろう。時計や眼鏡タイプのウエアラブル機器がもてはやされているが、使い勝手や本来のニーズを考えた場合には、スマホを超える魅力的なシステムとは思えない。当面、基板市場はまだまだスマホの成長に支えられることになる。

 日本勢が最後の砦として守り抜いてきたMPU用の樹脂パッケージ基板、FCCSP基板といった市場にも大きな変化がやってこようとしている。ファンアウトWLPの登場により、パッケージ基板レスの可能性が指摘され始めた。MPUもPCの長期低迷で、今後は右肩上がりの成長をもはや望むべくもない。

 日本がかつて汎用コンピューターのマーケティング戦略の読み誤りで、大きな苦汁をなめてきたことは前述のとおりである。
 結局、セットとは切っても切れない関係にあるプリント配線板は、そのセットの将来性を読み解き、常に一歩先を見通すことが従来以上に求められている。ライバル企業よりも先に、これから売れるモノや世の中で受け入れられるモノ作りに迅速に対応できるよう、常日頃から感度の良いアンテナを張り巡らせておく必要がありそうだ。

電子デバイス産業新聞 副編集長 野村和広

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